The Jerusalem Archeological Park(エルサレム考古学公園)

訪問日: Wed, 27 Feb 2013

「嘆きの壁」を見た後は、さらに南へ歩いて、神殿の丘の西南角の外側にある考古学公園(The Jerusalem Archeological Park)へ行きました。

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目の前に西壁と南壁の交わる角が見えます。その周囲には、発掘された多くの遺跡があり、嘆きの壁の近くでは今も発掘が行われています。左手の奥に木製の塀のように見えるのが、神殿の丘に入るときに渡った陸橋です。

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西壁の南端には、ロビンソン・アーチの付け根部分が見えます。

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ロビンソン・アーチとは、下の道路から神殿に入るための大きな階段で、道路の上を横切るアーチで王の柱廊の西の入口につながっていました。ローマ軍がエルサレムを破壊したAD70年に、このアーチも破壊されました。

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現地にあったロビンソン・アーチの説明図です。

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1838年にアメリカの探検家Edward Robinsonによって発見されたのでロビンソン・アーチと名付けられました。アーチの直径は13m、道路の高さから11m上に架けられていました。

下の絵は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」に載っていた想像図です。

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このアーチの下には、幅の広い舗石路が通っていて、その両側には商店が並んでいたそうです。下の写真の中ほどの窓が並んだように見えるのが商店の跡とか。

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西壁に沿って、下の舗石路まで降りて行きます。それにしても西壁は高く垂直にそびえています。2000年前によく造ったものです。

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大きな石が正確に切り出され、ヘロデ大王特有の縁取りがされています。

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西壁の下には、落下した大きな石が転がっていました。これは、ローマ軍がAD70年にロビンソン・アーチを破壊したときのものです。

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転がっている巨石にも、ヘロデ大王特有の縁取りが見られます。

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人間の大きさと比べると、石の大きさに圧倒されます。

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ロビンソン・アーチの付け根から下の部分を見たところです。下の道路は、落石の衝撃で凹んでいます。

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以前見たハーベストタイム・ミニストリーの中川健一牧師の聖地旅行番組での説明では、ローマ軍がここにあったロビンソン・アーチを破壊した方法について以下のように説明していました。

  1. アーチの下に木枠を組んでアーチ全体の石を支える。
  2. アーチの真ん中の一番高いところにある、全体の力を受けている石(かしら石)を抜き取る。
  3. 木枠を火で焼くと、アーチ全体がバランスを失って崩れ落ちる。

ということだそうです。 それで、大きな石が落下したときに石畳の道路が凹んでしまったそうです。

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下の説明によりますと、 ”ロビンソン・アーチを構成する楔形の石を支えていた大きな支柱となる石は、下図のように4つの小部屋を形成していて、これらは、通りに面する商店になっていました。”

この道路の両側には商店が並び、神殿礼拝のためのお金の両替商やささげ物の小動物を売る店などが並んでいたそうです。

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西壁のこのあたりも、ローマ軍によって破壊されて以来、徐々に埋もれていき、ロビンソン・アーチの付け根部分から下は、殆ど土に埋もれていましたが、ロビンソンによって発掘され、現在は、幅8m、長さ75mに渡って、2000年前の道路が再現されています。

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このあたりの復元図です。アーチの左下の小さな4つの穴が、発掘された商店跡です。

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商店の一区画です。大きな石で囲まれていますが、ひとつの店の間口は、それほど広くはありません。

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このあたりで、多数の銅貨も発見されました。これらは、巡礼者が持ってきたもので、神殿礼拝用の半シェケル硬貨に換えられたものであろうとのこと。

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重さを量る石の分銅も出てきました。

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ヘブライ語でKRBN、すなわちKorban(コルバン、ささげ物の意)と彫られた石も発見されました。二羽の鳩の絵も彫られています。

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また、沐浴槽の模型もありました。

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次に、南壁の下に行きます。正面上の黒いドームは、神殿の丘の南端にあるアル・アクサー・モスクのドームです。その南側に出っ張った建物は、十字軍が建てた見張り台とのこと。

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ここでの注目すべきところは、下の写真にある大階段の跡です。幅約60m、ゆるやかな勾配で30段から成っている広大な石の階段で、1970年に発見されました。それまでは草原になっていて、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」の著者も、よく散策したところだそうですが、その数十センチ下にこのような階段が眠っていたとは考え及ばなかったとのことです。

南壁の階段の上には、フルダ門(2重門と3重門の二つある)がありますが、左上に半分だけ見えるアーチ状のくぼみが2重門の跡です。

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上の写真の東側です。むき出しの岩になっているのが発掘された状態の階段で、きれいなものは発掘後に修復されたものです。

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南壁の下には、多数の大理石の柱が横たわっていたり、立っていたりしています。これらの柱は、王の柱廊に使われていた円柱の断片と思われます。

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更に東へ進むと、フルダ門の3重門跡があります。この下にも大階段があります。

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現地の説明図です。左側がフルダ門の2重門、右側がフルダ門の3重門です。フルダというのは、「もぐら」という意味もありますが、ヨシヤ王の治世(在位BC640-609)に神殿を修理していた時、偶然に律法の書が発見され、これがヨシヤ王の宗教改革の発端になりました。この門の名は、その意義について教えた女預言者フルダの名を記念して名付けられたともいわれています。(列王記下22:14-20)

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下の説明によりますと、”フルダ門として知られる南壁の二つの門は、第二神殿時代(BC1世紀~AD1世紀)に建てられた。これらの門は神殿の丘に導くトンネルへの出入り口になっている。西側の2重門は中世に建てられた建物で半分ふさがっている。東側は3重門になっている。これらの門へは大階段で行き来できる。(殆どの階段は、発掘後修復されたものである。) 石を彫って作られた沐浴槽もこの近くでたくさん発見された。”

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その近くには、たくさんの石の沐浴槽がありました。2000年前には、多くの巡礼者が、この門を入る前に身を清めるためにここで沐浴したようです。もちろん、イエス様も、毎年の過越し祭りの時に両親に連れられて上京し、この沐浴槽で身を清めてから、大階段を上ってフルダ門を通り、神殿の祭事に参加したものと思われます。

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近くに、「第二神殿時代の貯水槽」の跡がありました。沐浴に必要とされる大量の水は、ここから供給されたようです。

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東の方を見上げると、オリーブ山が見え、この日もたくさんの観光バスが並んでいました。頂上に「セブン・アーチズ・ホテル」が見えますが、私達が1日前に神殿の丘を見下ろしたのはあのあたりからです。

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オリーブ山から見下ろしたときの写真です。大階段の様子が良く分かります。

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大階段の前は大広場になっていたそうです。また、洗礼槽もたくさんあるので、ペンテコステ(聖霊降臨)の起こった場所は、最後の晩餐の行われた「二階の間」ではなく、この大広場だったのではないか、という説もあるそうです。使徒行伝2章では、5旬節に聖霊降臨が起こったあと、ペテロが演説して、その後、3000人ほどが洗礼を受けたとありますから、こちらの洗礼槽が使われたのではないかということです。

使徒行伝2:41  ”そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。”