Herodian Quarter(ヘロデ時代の高級住宅地区)

訪問日: 27 Feb and 1 Mar 2013

この日の最後の訪問地、ユダヤ人街の中のHeroian Quarterと呼ばれるヘロデ時代の高級住宅地区を見に行きました。私達夫婦は、グループツアーの終了後も数日間エルサレムに残ってあちこち見て回りましたが、ここには再度入場してしまいました。しばらく見学した後、あれっ、ここは一度来たことがあるぞ、と気がついた次第です。(笑)

この高級住宅群は、紀元70年、ローマ軍に焼かれて崩壊し埋もれていたものですが、1969~83年にヘブライ大学のアヴィガド教授によって発掘され、復元整備され、経済的支援者の名をとって「ウォール博物館(Wohl Musium)」という名前で公開されました。

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”この第二神殿時代の住宅群はエルサレムの上市にあった。ここには、裕福な貴族や祭司の家族が住んでいた。この地区はAD70年にローマ軍によって破壊された。1969-82年のユダヤ地区再開発の時に発見された。その高貴さと豪華さの故に、Herodian Quarter(ヘロデ時代の高級住宅地区)と呼ばれる。今までで最も古い神殿メノラーの彫刻もここで発見された。”

中に入ると、ユダヤ地区発掘の説明がありました。

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上の説明には、エルサレムの悲劇の歴史が書かれています。要約しますと、

  • 2800年前、BC7-8世紀頃のユダヤ王国時代に、ユダヤ人はエルサレムのこの地区に住み始め市街を形成した。
  • AD70年、エルサレムはローマ軍によって破壊され、ユダヤ人はエルサレムを追われて各地に離散した。
  • それにもかかわらず、ユダヤ人はエルサレムに戻ってきて14世紀頃にはこの地区にユダヤ人コミュニティができた。
  • 1948年の独立戦争でユダヤ人地区はトランスヨルダンのアラブ軍に占領され、家々は略奪されシナゴーグは破壊された。
  • 1967年の六日戦争でエルサレム旧市街はイスラエルに奪還され、復興が始まりユダヤ人は再びこの地区に住むようになった。
  • 復興に先立ち、空き地はビルが建てられる前に考古学的発掘調査の対象とされ、多くの発掘者が歴史を明らかにするために15年間働いた。
  • その結果、いろいろな時代の遺跡や遺物がたくさん発掘され、保存作業が始められた。
  • このHerodian Quarterは、2000年前のヘロデ大王の時代に上流階級の家族が住んでいた住居群であり、AD70年にローマの将軍ティトスに破壊されたものである。

エルサレムは、何度も破壊と再建が繰り返され、廃墟の上に新しい建物が建てられて壮大なテル(遺跡の丘)になりました。その地下を掘れば歴史をさかのぼることが出来ます。

次の2枚の写真がこの地区の復興前と復興後の写真です。

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上の写真は復興前です。嘆きの壁の前には広場はなく、家々が立ち並んでいます。

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上は、復興後の写真、嘆きの壁の前の地面が低くされ広場が出来ています。また、多くの新しい家々が建てられました。

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上の写真は、Herodean Quarter発掘当時の写真です。

この博物館は、この住居群と発掘された遺物を保存しているもので、全長120メートル、広さは2700平方メートルあり、全体の見取り図は下記のようになっています。地下に埋もれていたので地面から3m下にあり、現在はビルの地下になっています。

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上の図のように、大きく分けて、「西の家(The Western House)」、「列柱廊建物(The Perystyle Building)」「中央複合建物(The Middle Block)」「大邸宅(Mansion)」「南の家(The Southern Building)」から成っています。以下の説明は「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」を参考にしています。

まず、「西の家(The Western House)」に入りました。これは、21m x 17mの建物で、 もともと2階建てでしたが、上部構造は完全に消失して階下構造だけが残っています。

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この建物の中には、中央の間、控えの間、浴室、二つのミクヴェ(祭儀用浴室)などがあり、浴室も控えの間も共に美しいモザイクの床で装飾されています。ミクベには石の階段を下りていくようになっていてアーチ型の天井があります。このことから、これはきわめて富裕な家族の住居だったものと思われます。

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上の写真は、「西の家」の一階部分です。中央の間や控えの間のモザイク床、ミクヴェに降りる階段、奥のミクヴェにはアーチ型天井があります。

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別の角度から「西の家」を見たところです。発掘された水瓶も置かれています。

次に、回廊を通って「中央複合建物(Middle Complex)」に行きました。

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この「中央複合建物(Middle Complex)」は、少なくとも2つの住宅ブロックから成り、その一つには立派なモザイク床のあるリビング・ルームがあります。

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上の写真のように、まんじ型の絡み合った模様の周囲に波型模様が囲み、その外周を組みひも飾りで囲んだ壮麗なもので、これは、当時AD1世紀前後のユダヤ装飾芸術特有のモチーフだそうです。ツィッポリやタブハの教会で見られた異教風の人間や動物は一切見られません。また、木製の三脚椅子、大理石製のテーブルや容器などの家具類が復元されて、元の位置に置かれています。

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隣の部屋には、石の回転式テーブル、石の容器や陶器の水瓶などが置かれています。

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上の写真のふたのある溝は、この建物の位置に作られたビザンチン時代の排水溝とのことです。

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また、中央複合建物のもう一つのブロックには、多数のミクヴェがあります。アーチ型の屋根は、ミクヴェの天井です。

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ここで発見された陶製のランプや容器が展示されています。赤色の陶器は輸入された高級品とのこと。

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独特の絵付けのある平型鉢はナバテア様式の高級品とのこと。これらたくさんの高級土器は、エルサレムの上流階級が当時の国際的な流行を追い求めていたことを意味するそうです。このような贅沢な生活を支える資金はどこから得られたのでしょうか?ローマ支配下にあったユダヤの庶民は高額の税金で苦しんでいたのではないでしょうか?

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この建物の発掘時に瓦礫の下の床から青銅製のコインが発見されました。真ん中のコインには、「Year Three、Freedam of Zion(イスラエルの自由、第三年)」と書かれています。これは、第一次ユダヤ・ローマ戦争開始第三年目(AD68年)に鋳造されたことを示しており、これによって、この建物がAD70年にエルサレムが陥落した時に炎に包まれて崩壊したことが分かるということです。

中央複合建物の隣には、「列柱廊建物(Perystyle Building)」があります。

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上の説明によると、この形式の列柱廊は、ポンペイの高級邸宅にあるものと同じ特徴を持ち、マサダやヘロディウムやエリコにあるヘロデ大王の宮殿にあるものと共通しているとのこと。

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現在は一部の柱だけが残っています。

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当時の柱は相当背の高いものだったようです。また、ドーリア式、イオニア式、コリント式など、いろいろな様式が取り入れられていたとのこと。

次に、これらの南西に位置する「大邸宅(The Mansion)」に入ります。下の図が見取り図です。

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これは、上市において最も大きく壮麗な建物で、約600㎡あり、高いところにあるので神殿の丘を望むことができることから、大祭司の家族が住んでいたのではないかとされています。2層分残っていて、地下には給水施設、貯水槽、幾つかのミクヴェや浴室、倉庫などがあり、一階部分には、舗装された中庭を囲んで幾つもの部屋やレセプション・ルームが配置されています。

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当時の再現図です。

また、分かりやすい模型も展示されていました。

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部屋の中までよくできています。

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これは、食堂でしょうか。

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こちらは、浴室。

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調理室と、右側が中庭です。

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これが、実際のレセプション・ルームの跡で美しい壁が残っています。

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レセプション・ルームの再現図です。

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実際の大邸宅の遺跡です。

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上から見たもので、ミクヴェへ降りる階段のようです。入口の床には美しいモザイクが施されています。

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発掘当時の大邸宅の様子です。中央の花模様の部屋は浴室のあととか。この家からは、神殿の丘を見下ろすことができたことがよく分かります。

最後に、「南の家(The Southern Building)」ですが、これはまだ復元されていないので見取り図がなく、発掘当時の写真がありました。

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この建物は、大邸宅の南に隣接するもので、地下レベルには幾つかのミクヴェや水槽、倉庫などがあり、一階部分には壁沿いに幾つかの小さな部屋があります。

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まだ復元作業がされてないので発掘当時のままです。穴の奥にミクヴェのアーチ型天井が見えます。

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こちらもアーチ型天井ですが、まだ埋もれたままです。これを見ると2000年間埋もれていた状態がよく分かります。

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大邸宅のモザイク床の上に炭化した梁(はり)の断片が見つかりました。これは、AD70年にローマ軍の猛攻による大火によって倒壊した天井の残骸だそうです。

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ガラスケースの中に炭化した天井の梁(はり)が展示されていました。右の上方には、残骸の中に発見された銅のコインが見えます。

紀元一世紀の高級住宅が発掘され復元されているのを見て、当時の上流階級の人々の裕福な生活が想像できます。当時は、ローマの支配下にありながら、ヘロデ王朝のもとで壮麗な神殿、宮殿、高級住宅等が立ち並び、エルサレムは繁栄のピークにあったと思われます。それが、AD70年のローマ軍の攻撃により、あっけなく焼け落ちて、2000年間、土に埋もれてしまいました。

イエス・キリストが弟子達とエルサレムに来た時の次の言葉が思い出されます。

” イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」” (マタイの福音書24:1-2)