Zedekiah`s Cave(ゼデキヤの洞窟)

訪問日: Saturday, 2 Mar, 2013

朝8:30に宿を出てゼデキヤの洞窟まで歩いて行くことにしました。この日は土曜日、金曜の日没から土曜の日没までシャバットと呼ばれる安息日で、ユダヤ人の商店はすべて休みです。企業や官公庁や公共交通機関もすべて休みです。下の写真は、クリスチャン地区の商店街ですが店は閉まっていました。

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しかし、中央の通りを北に進むとアラブ人の商店街になり、朝から野菜を買う人たちで賑わっていました。

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ダマスコ門の内側です。まだ9時前ですが、ジュース屋さんも開いており、多くの人が行き交っていました。

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ダマスコ門を通って城壁の外に出ました。

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城壁前の大通りの向こうでは、パンをたくさん並べて売っています。このパンはなかなか美味です。パンを並べた板を支えるのは、数個積まれたプラスチックの箱だけなので、倒れないか気になります。

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ダマスコ門を出て少し東に歩くと、ゼデキヤの洞窟の入口があります。

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小さな入口の看板には、「ソロモン王の採石場(ゼデキヤの洞窟)」と書かれています。

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中に入ると、びっくりするほどの広さ。右下にある木の小屋はトイレでした。下水処理はどうしているのでしょうか。

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広大な洞窟で、奥行き225m、総面積は9000㎡になるとか。奥のほうまで道があり、明るく照らされています。

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ところどころに、このような大きな柱があります。これらの柱が上の岩盤を支えているものと思われます。

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上の柱のあった場所は「フリーメイソンズ・ホール」と呼ばれているそうです。

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説明を訳しますと、

”この洞窟は1854年の冬に発見された後、ヨーロッパから多くの観光客や訪問者がこの洞窟を見に来たが、その中にフリーメーソンのメンバーの人々がいた。フリーメーソンの人々は、ソロモン王を聖書における最初のフリーメーソンとみなしており、ソロモン王が第一神殿建設にあたりこの石切り場を使ったという伝承をもとに、彼らはこの洞窟の主要な部屋で、およそ一世紀に渡り、彼らの伝統的な儀式を行なった。”

今もその時彼らが刻みつけたフリーメーソンのしるしが岩面に残っているそうですが、気がつきませんでした。

フリーメーソンについてはモーツアルトや著名人も入っていた秘密結社と聞いたことがありますがよく分かりません。

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明るく照らされて階段をさらに奥に進むと、「ゼデキヤの涙」と説明のあるコーナーがありました。よく見ると、岩の上方の小さな割れ目から水が下に滴り落ちています。

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説明では、

”この洞穴の岩の天井はたくさんの割れ目や裂け目があり、そこから「ゼデキヤの涙」と呼ばれる小さな水溜りに水が滴り落ちている。伝承によれば、この水は、第一神殿が崩壊した後、ゼデキヤ王がカルデア人に捕えられた時に流した涙だと言われている。 この水は飲めない。”

涙とすれば、この水はしょっぱいのかもしれません。

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この伝承は、第二列王記25:4-7によるものと言われています。

”こうして町はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていたが、第四の月の九日、町の中では、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。そのとき、町が破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園のほとりにある二重の城壁の間の門の道から町を出た。カルデヤ人が町を包囲していたので、王はアラバへの道を行った。
カルデヤの軍勢が王のあとを追い、エリコの草原で彼に追いついたとき、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。そこでカルデヤ人は王を捕え、リブラにいるバビロンの王のところへ彼を連れ上り、彼に宣告を下した。彼らはゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの両目をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行った。”

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もともとこの洞穴は第一神殿時代からの石切場だったと考えられており、幾何学的に切られた後があちこちに残っています。切り出された岩の量は50万トンと推定されるそうです。

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再び外に出てその場所を見てみると、まさに城壁の下にあり、こんな大きな洞穴がよく城壁や城壁内の石の建物の重さで崩れないものだと感心しました。外からは、とてもそんな巨大な洞穴があるとは思われません。

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この洞穴を最初に記録に残したのは10世紀のアラブ人の歴史家エル・ムカダシだそうです。その後、オスマン・トルコ時代に城壁が建設された時、敵がここから町へ侵入してくるのを防ぐために閉鎖されましたが、1854年に、イギリスの探検家バークレイによって偶然発見されました。

ヨルダン政府の支配下ではしばらく閉鎖されていましたが、1967年の六日戦争後イスラエル支配下になり、1985年に修復工事がされて有料で公開されるようになりました。

上記の内容は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」を参考にしました。