Avdat(アブダット)
訪問日: Mar 6, 2013
ベエル・シェバから国道40号線を南に下ってミツぺ・ラモンに行く途中の左手の小高い山の上にアブダット国立公園があります。山の頂上にはお城のような建物があり、旗がひらめいています。これが、古代アブダットの遺跡です。現在はイスラエルの国立公園のひとつであり、2005年には”香辛料ルート”(The Incense & Spice Root)および他のナバテア人の隊商宿の町、マムシット、シブタ、ハルツァと合わせてユネスコの世界遺産に指定されました。
山の頂上へ行くには、まず入り口のビジターセンターで入場料を払い、車で山道を登って行きます。
入り口のビジターセンターでは、アブダットの歴史を紹介する映像を見せてくれました。アブダットを知るには、まず、ナバテア人について知る必要があります。
ナバテア人(the Nabateans)のNabatというのは、”of Arab”という意味で、アラビア人の一部族であり、BC10世紀頃からその存在が知られていました。言語はアラム語を使いましたが、単語はアラビア語を使い、文字はアラム文字を変化させたナバテア文字を使ったそうです。遺跡はたくさん残っていても書物や記録は少ないとのことで、神秘につつまれています。”香辛料の道”(Incense and Spice Route)、すなわち、東方のイエメンやオマーンから香辛料を積み、ナバテア人の首都ペトラ(Petra)を通り、地中海沿岸のガザ(Gaza)までを結ぶ2400Kmに及ぶ通商路を隊商を組んで行き来し、通商貿易で莫大な富を蓄えていきました。
紀元前168年にはナバテア王国を築きました。初代の王はアレタス一世。その首都ペトラ(Petra)は、岩を削った荘厳で神秘的な町として有名です。
ナバテア王国はその莫大な富によって繁栄しましたが、紀元前65年には進攻してきた強大なローマ軍に対して銀300タラントを払って和睦しローマ帝国の属国となりました。その後も南アラビアから地中海に至るほぼすべての隊商路を掌握して繁栄し、アレタス4世(AD9-40年)の頃に黄金時代を迎えました。しかし、AD1世紀以降は紅海を船で渡るルートやペルシャ湾からシリアのパルミラなどを通る北方のルートが主流となると徐々に衰退し、AD363年の大地震によってペトラが隊商宿として機能しなくなると表舞台から姿を消していきました。
ここアブダットは、ペトラとガザを結ぶ香辛料ルート(Insence & Spice Root)の途中にあり、Obodasという王の名前をとってObdat(またはAbdat)と名付けられ、砂漠のなかの隊商宿の町として繁栄しました。このルートにあるナバテア人の隊商宿の町としては、シブタ(shivta)やマムシット(Mamshit)などが知られています。
この山上の町は、香辛料ルートの中継地として、隊商を外敵や盗賊から守るために城壁で囲まれた要塞として造られ、大きな貯水槽が備えられ、最初はナバテア人の神殿が建てられました。その後、AD1世紀後半からは、ローマ帝国の道路が主に使われるようになり、ナバテア人の香辛料ルートは衰退していきました。そして、Avdatには、ローマ人の神殿が建てられた後、ビザンチン時代になると立派なキリスト教会や修道院が建てられ、壺の製作所やローマ軍の駐屯地なども設けられました。町が大きくなると、ナバテア人はその周りに農場を作り、ローマ軍や旅人に食料やワインを供給するようになって定住するようになっていきました。前回の記事で紹介したカーメイ・アブダット・ファームのブドウ園はこのような古代のブドウ園の跡に造られました。
South-west hillside 南西側を見たところ。
Southern villa 南側にある集落跡。ビザンチン時代のもの。
石造りの壁は大分壊れています。
年間に80mmくらいしか雨が降らないので、貯水槽はしっかりと作られています。
アーチ部分はきれいに残っています。このアーチで天井を支えていました。
アーチの外側からは雄大なネゲブの荒野が見渡せます。
隊商のイメージを表現した鉄板のオブジェが並んでいました。
Roman Tower ローマ時代の塔。
十字軍の建物のように見えますが、294年に建てられたローマ時代の見張り塔です。
中は四角い何もない部屋です。天井はアーチで支えられています。
Byzantine Quarter ビザンチン時代の住居跡
この居住区はローマ時代に造られましたが、AD630年の大地震で破壊されました。
アーチ構造が随所に見られます。これらは天井や2階部分を支えるために使われました。
当時の生活の様子を表すモニュメント。
ぶどう絞りのための設備です。この広い床にぶどうを敷き詰めて足で踏んだものでしょう。
このようなワイン・プレスの場所が5か所見つかったとのことですから、このあたりにはブドウ園がたくさんあり、かなりのワインが生産されていたと思われます。
City Fortress 町の要塞
これもビザンチン時代に造られました。目的は、外敵の攻撃から守るためです。
要塞の広さは、幅43m、奥行き63mとのこと。
内部には大きな広場があり、
雨水を誘導するための水路が作られています。
年間80mm程度しか降らない雨を集めて貯水槽に蓄えます。イスラエルの要塞には、どこも工夫された貯水システムが用意されています。
Nabatean Temples ナバテア人の神殿
ナバテア人は、アラブ人の一部族ですが、当時は独特の多神教を信じていたとか。最初はナバテア人の神の神殿が作られたが、ビザンチン時代には教会に作り変えられました。
北の端にあるゲート・ハウス。町の北側の門です。
The Southern Church 南側の教会。
中に入ると教会の再現模型が置かれていました。
随分立派な教会です。この教会は、ビザンチン時代に建てられた修道院の一部だとか。
Atrium 中庭
教会の前にある中庭は石畳が貼られ、4列の柱が建てられています。これらは、ナバテア王アレタ4世(AD9-40年)が建てた神殿をベースにしているそうです。この床の下にも大きな貯水槽があります。
これらの柱は2階部分支えていたものらしいとのこと。
入り口両脇には下のような十字架の浮彫りがありました。
The Church 教会
教会の奥には、3つのApse(半円形の張り出し)があります。中央のApseには小さなテーブル状の祭壇があるのですが、壊されています。
北側のApse
祭壇横の仕切りにも十字架の彫り物がありました。
Lookout Platform 見晴らし台
教会の西の端には素晴らしい見晴らし台があります。
下を眺めると、南西角の建物の向こうに、ネゲブ砂漠が見渡せます。
左下にはアブダット国立公園のビジターセンターがあり、その向こうを横に走る道路が国道40号線です。右がベエル・シャバ、左がミツぺ・ラモンを経てエイラットまで伸びています。
アブダットは、ローマ・ビザンチン時代にはローマ帝国の防衛と通商の拠点として繁栄し、AD5-6世紀に絶頂期を迎えましたが、7世紀の大地震で破壊され廃墟となりました。その後、ずっと埋もれたままでしたが、1987年になってPulmerとDrakeという考古学者に発見されてAvdatと同定され、その後も多くの学者によって発掘されていき、2005年には、他の隊商宿の町と合わせてユネスコの世界遺産に登録されました。
しかし、2009年10月5日の夜、何者かに荒らされ、柱や壁やアーチ、ワインプレス、装飾品、彫刻や展示品が壊されたり、スプレーペイントで汚されたり、大損害を受けました。イスラエル政府は870万シェケルの予算を確保し各方面の専門家の協力を得て3年間のプロジェクトを組んで修復しました。
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Avdat
アブダット
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