Bet She’an No.2(ベテ・シャン その2)

訪問日: Mar 7, 2013

ベテ・シャン(その1)では、ローマ・ビザンチン時代の壮麗な町(当時の名は、スキトポリス)の遺跡を見ましたが、それ以前の古代のベテ・シャンの中心は、その東方にそびえる小高い丘の上にありました。この丘はやはりテル(遺跡の積み重なった丘)になっていて、紀元前5000年代頃からの遺跡が20層も積み重なっているということです。

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丘のふもとから上の方まで、階段が用意されています。

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階段を上ると、ヨルダン渓谷と、その向こうにヨルダンの山々が見えてきます。

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丘の上は平らになっていて、ところどころに古い家や壁が崩れたようなものが見えます。

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ベテ・シャンという名で思い出されるのは、第一サムエル記で、サウル王が殺された後に胴体がベテ・シャンに運ばれて壁につるされたところです。

” 翌日、ペリシテ人がその殺した者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルとその三人の息子がギルボア山で倒れているのを見つけた。彼らはサウルの首を切り、その武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地にあまねく人を送って、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた。彼らはサウルの武具をアシュタロテの宮に奉納し、彼の死体をベテ・シャンの城壁にさらした。” (1サムエル 31:8-10)

サウル王の死体がつるされたのはどの壁なのだろうかと思いつつ、登っていきました。

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丘の頂上の周りにも城壁の跡があり、大きな石の柱も転がっています。城壁は黒い玄武岩のしっかりしたものですからイスラエル王国時代のものではないでしょうか。 聖書によれば、ダビデ王がペリシテ人と戦ってここを焼き払った後、ソロモン王がイスラエルの防衛拠点の一つとしてベテシャンを要塞都市としました。紀元前10世紀頃のことです。

”ソロモンは、イスラエルの全土に十二人の守護を置いた。彼らは王とその一族に食糧を納めていた。すなわち、一年に一か月間、おのおの食糧を納めていた。 彼らの名は次のとおり。エフライムの山地にはフルの子。・・・(途中略)・・・ タナク、メギド、それに、イズレエルの下ツァレタンのそばのベテ・シェアンの全土、ベテ・シェアンからアベル・メホラ、ヨクモアムの向こうまでの地には、アヒルデの子バアナ。” (Ⅰ列王 4:7-12)

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転がっている大きな石の円柱は、ふもとの町にあったものと同じようにみえますから、ローマ・ビザンチン時代に建てられた神殿のものと思われます。

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あちこちに大きな石の円柱や、玄武岩の四角い塊が見られます。

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下の四角く黒い玄武岩には、次のような説明がありました。

”イスラエル王国の要塞の跡:

これらの大きな玄武岩は、ダビデやソロモンの時代に築かれた大きな要塞の城壁のものです。この要塞はソロモン王の死の5年後にこの地に侵攻してきたエジプトの王シシャクの軍勢により激しく焼かれ破壊されました。”

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このテルの上で発掘された遺跡の多くは、ソロモン時代よりもずっと古い紀元前15世紀から12世紀頃のエジプト王朝のものです。

ベテ・シャンは、ヨルダン渓谷とイズレエル渓谷の交点にあります。古代より小アジア、エジプト、地中海、アラビア等を結ぶ交通の要衝であり、ギルボア山麓のハロデの泉から流れ出る豊かな水により肥沃な土地に恵まれていました。

はじめはカナン人の町でしたが、紀元前15世紀にエジプト王朝のファラオ、トトメス3世(1479-1425BC頃)がメギドの戦いでカナン連合軍を破り、この地を征服してカナン北部支配の中心地としました。この支配は350年間続きました。

下の写真の右側に見える住居跡は、エジプト統治時代の総督の家の遺跡です。

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正方形の壁に囲まれています。

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家の中央には、丸い石の土台があります。

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”この家はエジプト支配の本部として使われた。この家はエジプトの富裕層の様式をしている。中央のホールを囲む部屋を持つ正方形の構造をしており、天井は2つの石の台座に置かれた2本の柱で支えられている。この総督の家は、エジプトのイスラエル支配が終わる紀元前12世紀の後半に崩壊した。”

下の図は、この家の再現図です。

”エジプト王朝のこの地の支配は紀元前12世紀に全盛期を迎えた。ベテ・シャンは、北部の重要な行政センターとなった、この家は、エジプト政府の本部として使われた。”

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また、このテルからは、エジプト支配時代の多くの貴重な遺跡が発掘されています。

これは、総督の家の入口ドアの上に置かれた石飾り(lintel)です。説明には、

”この家は、紀元前12世紀のエジプトの総督、Rameses-Weser-Khepeshのものである。このあたりで発見されたこのリンテルには、彼の地位が「総督として任命された王の書記官」という高い地位であったことが記されている。また、その絵には、総督がエジプトのファラオ、ラムセス3世の名前と象徴にひざまずいている様子が描かれている。”

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また、家の隅には、足の部分が残された像がありました。

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下の写真が完全な姿で、紀元前12世紀頃のラムセス3世(在位1186-1155BC頃)の像だそうです。

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下の写真は、1928年に発見された石碑です。

”エジプトによるトランスヨルダン北部の鎮圧を記念して、セティ一世がベテ・シャンに建てた玄武岩の石碑。セティ一世の治世に、エジプトはアマルナ時代に弱体化したカナンに対する支配権の再強化を図った。” 「図説聖書の大地(ロバータ・L・ハリス著)より」

上部に描かれているのは、蛇の王冠(ウラウス)を被った王(左側)が、エジプトの太陽の神(右側)に油を注ぎ、香を焚いている図とのこと。

ちなみに、セティ一世(在位1290-1279BC頃)は、ラムセス一世の子でラムセス二世の父です。

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もちろん、この石碑はレプリカで本物はエルサレムのロックフェラー博物館にあるとのことですが、ロックフェラー博物館を訪問した時には気が付きませんでした。

また、その近くにはライオンと犬が戦っている石碑がありました。これはカナン人のものです。

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この玄武岩のレリーフは、紀元前14世紀頃のカナン人の神殿に飾られていたもので、カナン芸術として大変貴重なものだそうです。右側の犬は町の守護神を表し、ライオンは死とか災いを表しています。犬はライオンにかみついて災いから町の安全を守っています。

もちろん、これもレプリカで、本物はエルサレムのイスラエル博物館にありました。下の写真は、グループ旅行の後でイスラエル博物館を訪問した時に撮りました。

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ちなみに、下の石棺もベテ・シャンで発掘された紀元前12世紀頃のものです。ロックフェラー博物館で撮影しました。

人面のふたがついています。この種の埋葬棺はペリシテ人のものと考えられていたこともありましたが、現在では、イスラエル南部に駐在していたエジプト人のものとされているそうです。(図説聖書の考古学旧約編:杉本智俊著より)

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他にも多くの遺跡が眠っていますが、まだ発掘の途中のようです。つい最近も、ベテ・シャン近くでハイキング中の7歳の少年が3400年前のカナン時代の小さな女性像を発見し、正直に政府に届け出たので「Good Citizen」の証明書を授与されたとのこと。

”The Times of Israel: February 25, 2016

http://www.timesofisrael.com/boy-finds-ancient-figurine-during-beit-shean-outing/

テルの北から東に向かってハロデ渓谷になっており、ハロデ川が流れていてヨルダン川に合流します。

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テルの北側にはもう一つの登り道があります。

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旧約聖書には、ベテ・シャンがたくさん登場します。

ヨシュアの時代にイスラエル人はベテ・シャンを征服しようとしましたができませんでした。

(ヨ シュア記17:11-12) ” またマナセには、イッサカルとアシェルの中に、ベテ・シェアンとそれに属する村落、イブレアムとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、エン・ ドルの住民とそれに属する村落、タナクの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落があった。この第三番目は高地であった。しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。”

士師時代になっても、ベテ・シャンを支配することはできませんでした。

(士師記1:27-28) ”マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。”

初代イスラエル王のサウルも征服できませんでしたが、その後、ダビデがベテ・シャンを征服して焼き払った後、ソロモンが要塞を築きました。

しかし、紀元前732年、ガリラヤに攻めてきたアッシリアに破壊されました

(Ⅱ列王記 15:29) ”イスラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕らえ移した。”

その後は、紀元前3世紀になって、ギリシャの支配下で再建され、スキトポリスと名づけられました。テルの上には神殿が建てられましたが、紀元前100年頃にはハスモン朝に破壊されました。

紀元前一世紀のローマ時代になると、デカポリス(10の都市連合)の行政中心都市とされ、計画的に整備された大都市がこのテルの南のふもとに造られました。

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Bet She’an

ベテ・シャン

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