Tel Lakhish(テル・ラキシュ)

訪問日:25 Feb 2013

ベエル・シェバの次は、ラキシュに行きました。テル・ラキシュは、カナン人の時代からイスラエル王国時代を経て、ヘレニズム時代までに渡るテル(丘状遺跡)です。現在は国立公園になっていますが、あまり整備されておらず、訪問客も少ないところで、見学した時はあまりピンときませんでしたが、帰国後に調べてみると、悲惨な戦いがあった実に聖書的な場所だと分かりました。

ラキシュは、紀元前13世紀から12世紀頃に大変栄えたカナン人の町でしたが、紀元前12世紀の中頃に完全に破壊され、誰もいなくなりました。これは、ヨシュア記に書かれているように、ヨシュアにより征服されたという説と、海の民(後のペリシテ人)により征服されたという説があるそうです。ヨシュア記10:31-32には、 ” ヨシュアはまた、全イスラエルを率いて、リブナからラキシュに進み、それに向かって陣を敷き、それと戦った。主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、彼は二日目にそれを取り、それと、その中のすべての者を、剣の刃で打った。・・・” とあります。

イスラエル王国が南北に分裂した後のユダ王国のレハブアム王(BC930-913)は、都の西側の備えとしてラキシュに強固な要塞を造りました。

第2歴代史11:5-10  ”レハブアムはエルサレムに住み、ユダの中に防備の町々を建てた。すなわち、ベツレヘムとエタムとテコア、ベテ・ツルとソコとアドラム、ガテとマレシャとジフ、アドライムとラキシュとアゼカ、ツォルアとアヤロンとヘブロン。これらはユダとベニヤミンの中にあり、防備の町々であった。”

下の写真は、ユダ王国時代の要塞の主門です。残念ながら、この日は入門禁止になっていました。

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テル・ラキシュについては、Biblewalks.com に実に詳しく書かれていました。下の絵は、そのサイトにあったユダ王国時代のラキシュの様子です。

LachishOld1s

主門からは入れないので、下の道路沿いに右方向へ歩いていきました。すると、主門の横には土を積み上げたような小高い丘がありました。

イスラエル王国が南北に分裂した後、アッシリア帝国が強大になり、イスラエルにも攻めてきてBC732年に北イスラエル王国を征服した後、南のユダ王国にも攻めてきました。BC701年には、アッシリアのセナケリブ王がラキシュを取り囲み、城壁の前に土を積み上げて斜面を造り、そこから攻め入って来ました。イスラエル軍も激しく抵抗しましたが、アッシリアの戦車や弓矢、城壁破壊器や投石器などに圧倒されて降伏し、多くの兵隊が捕虜としてアッシリアの首都ニネベ(現在のイラクに遺跡があります)に連れて行かれ悲惨な仕打ちを受けました。

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主門の横にある丘ですが、帰国後に調べてみたら、どうもこれがアッシリア軍が要塞に攻め込むために土を積み上げて造ったAssyrian Siege Rampと呼ばれる侵入用斜面のようです。とすると、ここからアッシリアの大軍が乗り込んで壮絶な死闘があり、多くの兵隊が死んだところになります。事実、ここからは、多くの頭蓋骨や矢尻が発掘されたそうです。

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このときの壮絶な戦いの様子が浮き彫りに描かれ、ニネベにあるセナケリブ王の宮殿の大きな壁に飾られていたそうです。(現在は、大英博物館に展示されているとのこと。) 下の図は、この浮き彫り画の一部を線画にしたもので、激しい攻撃の様子が良く分かります。(Assyrian attack – evidence from the south-western corner David Ussishkin (33 pages; pdf, 1990)より。)

AssyrianSiegeRampFight

私達は、テルを取り囲む緩やかな坂道を歩いていきました。

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右下に見えるのは、ラキシュのモシャブ(キブツは共有財産制ですが、モシャブは家族経営の農場を集めた共同体)で、ぶどう生産が盛んとのこと。イスラエルの3大ぶどう産地の一つだそうです。

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よく見ると、さすがイスラエルの農場!規則正しく整然と植えられ、大規模でシステマチックに管理されているようです。

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これは、カナン時代のなにかの遺跡でしょうか?なにも説明がありません。

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テルの中央部分に石垣が見えてきました。

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整然と並べられた大きなものです。

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階段を上ると広場になっています。

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案内板にはThe Palaceと書いてあります。これはユダ王国時代の司令官の宮殿跡です。

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石垣の上の広場には、数々の戦いや盗難のため今は何もありません。石の柱の台が2つだけ残っていました。ユダ王国の要塞だった頃(BC8世紀頃)に立っていた宮殿は、当時のイスラエルでは最大級のもので、広い中庭や、馬屋があったそうです。

ここで、明石牧師は、アッシリアがエルサレムを包囲した時の話から「中傷する敵」というメッセージを話されました。

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宮殿跡からは、東の方にユダの山々が見渡せます。方角的には、この先にヘブロンがあると思われます。エルサレムは、そのずっと左の方になります。

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テルの上の道を歩いて、入口に戻ります。この道の先が、少し高くなって丘のようになっていますが、これも調べてみると、アッシリアが進入路を造って攻めてきた時に、イスラエル軍が防戦するために造った傾斜地(Judean counter-ramp)のようです。

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その手前には、壊れた城壁の跡がありました。

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そこから先は、入口へ下る道が見当たらず、急な坂になっています。

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私達はやむなく、転ばないように互いに助け合って降りていきました。この坂がまさにアッシリア軍が攻め上って来て死闘が繰り広げられたところとは、その時は全く知りませんでした。この下に、まだたくさんの骨が埋もれていると思われます。

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セナケリブ王は、しばらくラキシュにいましたが、結局エルサレムを征服することはできず、アッシリアに引き返しました。その後、ラキシュはヨシア王の時代(BC649-609)に再建されましたが、バビロニアがアッシリアを倒して大帝国となり、ネブカデネザル王が攻めてきてBC587年にユダ王国は完全に征圧され、多くのユダヤ人がバビロンに連れ去られました。その最後の戦いの頃の書簡(陶片にヘブライ語で書かれたもの)が幾つかラキシュで見つかっています。その一つには、「ラキシュからののろしは見えますが、・・・アゼカからののろしは見えません。」と書かれているそうです。ついにアゼカが征服されたことを知らせています。

エレミア書34:7  ”そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらがユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。”

その後は、BC539年にペルシャがバビロニアを倒し、BC538-BC445年にかけてユダヤ人は帰還してきました。そして、エルサレムと同じ頃、ラキシュも再建されました。しかし、ペルシャ時代が終わる頃には衰退し、ヘレニズム時代には、多くの他のテルと同じように廃墟となり忘れ去られていきました。

近代になって最初に発見したのは、1929年のアメリカの学者オルブライトで、その後、スターキーが1932-1938年に発掘調査を行いましたが途中アラブ人に殺されて中断。1966-68年にアハロニ教授、続いて1973-1994年にかけてテルアビブ大学によって発掘調査がされ、David Ussishkin教授によって詳しい論文が書かれています。