Bet She’an No.1(ベテ・シャン その1)

訪問日: Mar 7, 2013

エン・ゲディから90号線を北に進み、ベテ・シャンに向かいました。ヨルダン川の西側を走る90号線はパレスチナ自治区に属すると思って警戒して走りましたが、この90号線とエルサレムに向かう1号線だけは、日本外務省の注意喚起がレベル1で、イスラエル国内と同様の治安が守られているようです。ベテ・シャンといっても、やはり幾通りもの英文表記があるのでなかなかNaviの目的地設定ができず、このあたりだろうと指さしたところへ向かったところが、なんと、ベテ・シャン国立公園の駐車場でした!!

早速、入場料を払って園内に入ると400分の1の城壁で囲まれた市全体の模型がありました。これは、ベテ・シャンの最盛期であるローマ・ビザンチン時代の頃を表しています。

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このあたりに集落ができたのは、紀元前5000年前頃ですが、その後、この地方の重要な拠点都市として、カナン人、エジプト王朝、ペリシテ人、イスラエル王国、ヘレニズム時代のプトレマイオス朝、セレウコス朝、ユダヤ人のハスモン朝、ローマ・ビザンチン帝国、イスラムのウマイヤ朝、十字軍、マムルーク朝、オスマン帝国、イギリス、など、様々な国の支配下に置かれました。

しかし、紀元749年の大地震で廃墟となって衰退していきましたが、近年になって大々的に発掘され、ローマの古代都市がそのまま復元されていて、町を歩くと、ローマ時代にタイム・スリップしたような気分になります。それでも、発掘されたのは上の模型の10分の1にあたるシティセンター部分だけで、現在もヘブライ大学などによって発掘が続けられています。

下の写真の後方に見える小高い丘が紀元前の古代遺跡があるテル・ベテ・シャンで、ヘレニズム時代にはスキトポリスと呼ばれました。ローマ時代の紀元一世紀になるとそのふもとにローマ式の大都市が造られ、デカポリス(10の都市連合)の一つのスキトポリスとして北イスラエルで最も重要な都市として発展しました。ここではローマ・ビザンチン時代について記述し、古代のテル・ベテ・シャンについては、次の記事でご紹介します。

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早速、入り口で貰った案内図に沿って見学していきます。

Beit Shean Map

1.まず最初は、入り口の近くにある大きな半円形劇場です。(マップ上の①、以下、説明番号はマップ上の番号に対応します。)

半円形劇場の外側から石のトンネルを通って中に入ります。

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この劇場は、まず、ローマ時代の紀元1世紀に建てられたそうですが、2世紀末に建て替えられて7000席となりました。イスラエルで発掘された劇場では最も保存状態が良いものだそうです。座席は3つの層に分かれており、一番下の層の座席は、ほぼ完全な状態で保存されていました。(ちなみに、カイザリアの半円形劇場は約4000席)

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現在は、座席から町の大通りや向こうの丘が見えますが、紀元2世紀当時には正面に高さ約21mの大きな飾り壁が立っていて外部を遮断していたそうです。

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下の写真では、一部復元されている飾り壁と円柱を見ることができます。

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2.Western Bathhouse(西の大浴場)

発掘されているのは市の中心のシティーセンター部分ですが、その中に大浴場が二つありました。この西の大浴場は小さい方ですが8500㎡もあります。これは、4世紀に造られ、約200年間使われました。その間、この地方の知事による資金で何度も改修されました。

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中央にバス室があり、その周りに、泳げるプール、マッサージ室、公衆便所、大理石の板やモザイクの敷かれた中庭などが造られています。

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モザイク模様のある中庭。

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バス室の床下の様子です。熱風が通って床や壁面を温めるように造られています。

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床下に熱風を吹き込むためのカマドです。

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下図のようにカマドで火を焚いて床や壁を温めました。

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バス室の中では、下図のように多くの人々がくつろいでいます。サウナのような感じですね。

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西の大浴場全体の模型です。かなり立派で大きな建物です。

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風呂に入る手順が漫画で面白く描かれていました。

”最初に、着替え室に行って、あなたの着物を脱いで棚に入れること。誰かに取り換えられたり、持ち帰られたりされないことを願いつつ。”

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”風呂で洗い流す前に、レスリングとか重量挙げなどの運動をして、良い汗をかくこと”

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”そして、ホットルームに行きましょう。そうすると、指一本上げなくてもあなたはマラソン選手のように汗をかくでしょう。まだ石鹸は発明されていないので、あなたの体にオイルをこすりつけ、あかすり器と呼ばれる棒でかきとること。”

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”ホットルームで十分湯気に当たった後は、ウオームルームでくつろぎます。”

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”少しお金を払って、マッサージ師のサービスを受けることもできます。”

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”床屋とかヘアードレッサーによる毛のグルーミングや美容サービスも受けることができます。”

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”さらに、頭の内部のために、学究的な講義やシンポジウムも行われていました。”

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2000年前の古代の人々が、現代人よりもずっと優雅な入浴を楽しんでいたとは驚きです。

”浴場の横には広い公衆トイレも用意されていました。現在は並んだトイレの便座部分が残っています。トイレ用紙はなかったので、小枝についた葉っぱを使っていました。便座の下には排水用の溝がつけられていました。”

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下の写真が、公衆トイレですが、便座用の板を差し込む穴がたくさん並んでいるのが見えます。

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3. Palladius Street (パラディウス通り)

劇場からテル(遺跡丘)の方に伸びる大通りで、長さは170m、両側に立派な柱が並んでいました。最初にできたのはローマ時代ですが、ビザンチン時代になって改修されました。よく見ると、モザイク床の上に大理石の床が被せられたようです。

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道路中央の下には、排水溝が造られているようです。

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当時の再現図です。屋根付きの柱廊があり、両側には2階建ての店が並んでいました。改築時の地方知事の名前を取ってパラディウス通りと名づけられました。

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4. Sigma(シグマ)

パラディウス通りの西側にある半円形の広場です。発掘された碑文からSigmaと名づけられました。半円形の周りに小さな部屋がたくさんあります。

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ビザンチン時代の6世紀に建てられました。当時の再現図です。

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各部屋の床にはきれいなモザイクが描かれていました。

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この部屋の床には人の姿が描かれています。

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描かれていたのは、ギリシャ神話にでてくる「テュケ」という女神、都市の財産と繁栄、運命を司る女神とか。これは複製で、オリジナルは盗難にあったとのことです。それにしても、キリスト教が国教化されたビザンチン時代にギリシャの女神が描かれているとはどういうことでしょうか??

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これらの小部屋は、商店や文化的施設だったとか。売春宿だったという説もあるそうです。

5. Byzantine Agora(ビザンチン時代の大広場)

この町の中央にある大広場で、屋根付きの部分やモザイク床がある商業センターだったそうです。

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北側から見た大広場。

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6. Roman Temple(ローマの神殿)

ディオニソス(ギリシャ神話に出てくる酒の神)信仰のために捧げられたと思われる神殿ですが、キリスト教がローマ帝国の国教となった4世紀に破壊されたとのこと。

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上から見たローマ神殿。

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7. Northern Street(北の大通り)

北西の市門に通じる大通り。

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749年の大地震で柱が倒れて散乱しています。

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8. Nymphaeum(泉の神ニンフを祀る神殿)

2世紀に造られた人工の泉。4世紀になって改修されました。

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Nymphaeumの再現模型

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9. Tel Bet She’an(テル・ベテ・シャン)

これは、紀元前5000年頃からの古い遺跡があるテル(遺跡の丘)ですが、長くなりますので、ベテ・シャン(その2)の記事でご紹介します。

10.1 The Central Monument(中央の記念建造物)

この豪華な建物の目的はよく分からないそうです。何かを記念する建造物であっただろうとのことですが、紀元749年の大地震で壊れてしまいました。

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上から見た写真。

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これら三つの建造物の再現図です。

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10.2 Valley Street(谷の大通り)

市の中心部から北東の市門に通じる大通り。

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大地震により、多くの柱が倒れました。

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11. Silvanus Street(シルバヌス通り)

列柱が続く大通り。

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ローマ時代には列柱と並行してプールが造られていました。ビザンチン時代になると、ローマ時代の道路の上に新しい道路が被せられ、プールの上に新しいホールが建てられました。ムスリムのアラブ人が支配する時代になると、このホールは使われなくなり、商店街に置き換えられました。そして、749年の大地震で列柱も商店も倒れてしまいましたが、現在はかなり復元されています。

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12. Eastern Bathhouse(東の大浴場)

東側にも大浴場がありました。西側大浴場と同じく、高温浴室や床下暖房があり、冷水浴室も備えられていました。下の写真は冷水浴室と思われます。

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13. Public Lavatories(公衆トイレ)

こちらの大浴場の横にも大きな公衆トイレがありました。

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当時の再現図です。この説明によれば、

”劇場や大浴場を訪れた人々は、優雅な社交や文化を楽しみました。しかし、自然の要求にはどう対応したのでしょうか。ローマ・ビザンチン時代の他の都市と同じく、ベテ・シャンにも公衆トイレがありました。ここで用を足す人々は、モザイクの床を通って入り、壁際に並んだ便座に座りました。隣との間に仕切りはなく、また、男女の区別もなかったようです。便座の下には排水溝があり、水が流れていました。枝についた葉っぱでその後の処理をしました。当時は、お金持ちの家にしかトイレはなく、普通の人々は、各地に用意された公衆トイレを使っていました。”

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14. Cultic Area(宗教的な場所)

その南側には、ローマ時代(1世紀頃)の神殿がありました。水が出てくる沐浴設備もあり、宗教的儀式がなされたものとされています。

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再現図です。

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15. The “Broken Bridge”(壊れた橋)

Valley Street(谷の大通り)は北東に伸びてハロデの川を渡りますが、そこにローマ時代に造られた巨大な橋がありました。そこを通ってさらに進むと北東の市門があり、そこには市場がありました。その後、橋は壊れ、現在は基部だけが残っています。

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当時の再現図。

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発掘されたベテ・シャン中心部の全体写真

古代のテル・ベテ・シャン(遺跡の丘)の上から見た、ローマ・ビザンチン時代の町の中心部。(ダブルクリックで拡大されます)

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このシティーセンターは、ローマ時代に造られ、キリスト教化されたビザンチン時代に最盛期を迎えたとのことですが、今まで見てきた通り、劇場と大浴場と公衆トイレ、商店街や売春宿、憩いの泉や宗教施設などを備えた巨大な娯楽の殿堂だったものと思われます。

新約聖書には、次のような記述がありますが、イエス・キリストは、このあたりを通られたのでしょうか?

(マルコ 7:31)  ”それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。”

この町はその後、不幸にもAD749年の大地震で廃墟となり埋もれてしまいましたが、そのおかげで最近の発掘により当時のままの姿を見ることができ、当時の人々の生活を想像することができます。

旧約時代のベテ・シャンと関わりのあるテル・ベテ・シャンについては、次回の記事でご紹介します。

Bet She’an ベテ・シャン

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