Bethesda Pools(ベテスダの池)

訪問日:26 Feb 2013

オリーブ山を下ってゲッセマネを通り、ライオン門を通っていよいよエルサレム旧市街に入ります。

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ライオン門は、ステパノ門とも呼ばれますが、それは、使徒行伝7章にあるように、このあたりで、ステパノが石打ちにあって殉教したことから名付けられたそうです。 そうであれば、このあたりにパウロが立ってステパノに石を投げる人々の服を預かっていたことになります。

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ライオン門は、紀元一世紀のイエス時代にはなかったもので、1538-1539にオスマントルコのスレイマン大王によって建てられました。ライオンのレリーフが彫られているのは、スレイマン一世が、エルサレムの周りに城壁を建設しないとライオンに食い殺されるという夢を見たからという言い伝えがあるそうです。また、この動物は実はレパード(ひょう)で、13世紀のマムルークのスルタン・バイバルスの紋章であり、それをこの新しい城門に移設したものであるという説もあります。エルサレム市の市章がライオンのマークであるというのは、単なる偶然でしょうか。

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ライオン門を入ると、ムスリム地区の狭い道路が続きます。この道路がビア・ドロローサに続いていきますが、右側にある建物の先の小さな入口を入るとベテスダの池の跡があります。

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小さな入口を入るとフランス政府が所有するカトリックの聖アンナ教会があります。この教会は、十字軍がエルサレムを占領してまもなく建てられました。カトリックの伝承によると、ここは、マリアの母アンナと父ヨアキムが住んでいたところで、マリアもここで生まれたのだそうですが、2世紀頃に書かれたヤコブ原福音書の記述から類推したものとのことで、考古学的に証明するものは何もありません。ちなみに、この説によればイエスの母マリアも、その父ヨアキムがユダ族のダビデの王族ビンティルの子ということで、ダビデの子孫ということになるようです。

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この聖アンナ教会の北側に、ベテスダの池の遺跡があります。

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下の写真が、現在見られるベテスダの池の遺跡です。狭くて深い水溜りしか見えません。その中に高い石造りのアーチが幾つか立っていて、その界隈に、古い石造りの建物の跡があります。入り組んだ構造なので、見学したときは、どうなっているのか良く分かりませんでした。

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ヨハネ5章2節~9節には、次のように書かれています。

” さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。”

このあと、ユダヤ人たちは、安息日を守らなかったと言って、イエスを迫害しました。

この時代を再現した50分の1モデルでは次の写真のようになっています。

大きさは、全体の長さ約120m、幅50~60m、深さ10~15m、という巨大な池だったそうです。建設されたのは紀元前2世紀頃で、神殿に捧げる羊などの犠牲の動物を清めるための大量の水を確保する必要があったために作られたとのこと。池の周りに建てられた5つの柱廊は、ヘロデ大王が大規模に神殿改築を行ったときに建てられたものとのことです。

この真ん中の柱廊が大ぜいの病人が伏せっていたところと考えられています。

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この真ん中の柱廊の東端にあたる部分が発掘され、ローマ時代(イエス時代)の回廊や壁画が発見され、水浴中の婦人像や小麦の穂を持つ人物像、蛇の彫刻などの断片が出土したそうです。これらのものから、当時、ここには、ギリシャ神話の医学の神、アスクレピオスの神殿が建っていて病人が治療に来ていたことが分かったとのことです。(関谷定夫著「聖都エルサレム5000年の歴史」より)

下の写真が、発掘されたローマ時代の医療入浴施設の遺跡で、沐浴や療養のための石のバスタブや洞穴が散らばっているのが見られます。真ん中あたりに柱が立っていますが、これは、後に建てられたビザンチン時代の教会のもので、その教会の下から、これらのローマ時代の遺跡が発掘されました。

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上の写真の柱の下にある黄色い札を拡大してよく見てみると、「ASCLEPIAN TEMPLE(アスクレピオス神殿)」と書かれていました。これは、ローマ時代には、エルサレムでもアスクレピオス信仰が広まっており、ベセスダの池は、もはや、ユダヤの神殿用の池ではなく異教の神殿となっていたことを意味するとのこと。ヨハネの福音書では、イエス様の癒しの奇蹟は、キリストこそが、本当の癒しであることを教えているということです。

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ビザンチン時代の大きな教会は、5世紀初期に建てられたということです。キリスト教が公認された後のビザンチン時代に、ベテスダの池の中央回廊のところにあったアスクレピオス神殿を完全に破壊して、東側半分をその上に、また、西側は池の中に石造りの背の高いアーチ橋(高さ12m)を7つ作り、南の池と、池の真ん中の柱廊にまたがる形でつくられました。全長45m、幅18mで、幅6mの中央の廊下があり、その廊下がちょうどベセスダの池の中央回廊の上になるように建てられました。当時の技術としては大したものです。異教崇拝の神殿を否定する意味合いがあったものと言われています。

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しかし、このビザンチン時代の教会は、紀元614年にペルシャ軍によって破壊され、まもなく再建されましたが、紀元1000年にファーティマ朝のカリフ、アル・ハーキムによって再び破壊され、紀元1099年に十字軍がエルサレムを占領した時には荒れ果てていたそうです。それで、十字軍は、この教会の跡に小さなチャペルを建てました。下の写真が、そのチャペル跡です。

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下の写真は、チャペルの下にあるビザンチン教会の遺蹟、ベテスダの北の池にあたります。

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下の写真のプレートには、「Northern Pool 7th BC」と書かれています。

最初に池が作られたのは、第一神殿時代の紀元前7世紀頃で、大量の雨水を溜めて、水路を通じて神殿に水を供給していたとのことです。

列王記第二の18章17節にでてくる「上の池」というのは、ベテスダの北の池だということです。

” アッシリヤの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところに送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らはエルサレムに上って来たとき、布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。”

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下のプレートには、「MUR BIZANTIN」と書かれています。ビザンチン教会の壁ということでしょうか。

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今残っている池の一部です。かなり深いですね。ビザンチン時代の大きな教会を支えた石のアーチが幾つか残っています。

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池の底には、石が階段状に敷かれており、かなりしっかりした造りだったことが分かります。

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見学が終わって帰りがけに撮った全体の写真です。北から南方向を見たもので、調べた結果を反映して想定しますと、図のような配置だったと思われます。聖アンナ教会にフランス国旗が立っているのは、フランス政府が所有しているからなのですね。

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次は、東側から西方向を見たものです。このような配置だったと想定されます。

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この写真を見ると、ローマ時代の入浴施設跡、ビザンチン時代の教会、十字軍時代のチャペル、右端の現在の公園、という順番で、新しい時代になるほど地面の高さが高くなっていることが良く分かります。