Church of the Holy Sepulchre(聖墳墓教会)

訪問日: 26 Feb 2013

いよいよエルサレム聖地旅行のハイライト中のハイライト、イエス・キリストが十字架につけられ、墓に葬られ、よみがえられたところに建てられたと言われる聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)に入ります。

下の写真は、オリーブ山から見た聖墳墓教会です。今では多くの建物に囲まれて埋もれていますが、2つの黒いドームが特徴的です。

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イエス様の時代にはこのあたりは城壁の外の岩場で、BC1世紀頃までは建築用の石切り場、AD1世紀頃には裕福な市民がこのあたりの岩に墓を掘らせていたそうです。ここをイエスの十字架の場所として発掘したのは、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌスに命ぜられ、キリストゆかりの聖跡をつきとめるため聖地を訪れた母へレナ皇后で、AD326年のことでした。ヘレナは、AD130年にエルサレムを征服したハドリアヌス帝が建てた異教神殿の真下に、岩の墓穴と釘のささった十字架の破片を発見し、イエスの墓と十字架だとみなして巨大な聖堂を建設しました。

現在の建物は、何度も建て直され、内部に多くのチャペルを持つ複雑な構造をしているので、当時の様子を想像するのは大変難しいのですが、Wikipediaの下記の図は参考になります。

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私達は、ヴィア・ドロローサを歩いてコプト教会のある第9ステーションまで来た後、その手前を左に曲がりました。

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すると、聖墳墓教会の屋根の上にでました。さすがに、世界各国から多くの巡礼者がおとずれています。 突き出ている丸いドームは、この地下にある聖へレナ教会の屋根です。

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向こう側に小さく狭い入口があり、大勢が入ろうとしていました。スリランカから来た人たちとのこと。

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しばらく待ってやっと中に入ることができました。

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中には、エチオピア正教の会堂があり、ここを通り抜けます。

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壁には、シェバの女王がイスラエルのソロモン王にたくさんのお土産を持って訪問したときの様子が描かれていて、その下に、 ” ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やって来た。(第1列王記10:1)” と書かれています。

エチオピアでは、エチオピア王室の先祖は、シェバの女王とソロモン王の間に生まれたメネリク1世とされ、エチオピア正教は、使徒行伝に出てくるピリポから洗礼を受けた宦官に由来するということです。先日、エチオピアのクリスマス巡礼(1月7日がエチオピアのクリスマス)の様子をNHKで放送していましたが、ヨーロッパ経由のキリスト教とは全く異なる素朴な純粋さを感じました。

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もちろん、キリストの十字架の絵も掛けられています。イスラエルがエルサレムを取り戻す前は、エチオピア教会が聖墳墓教会を守ってきたということです。

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エチオピア教会の会堂を抜けて、聖墳墓教会の前庭に出ました。

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この建物の2階に中途半端なはしごが掛かっています。これは、石工が置き忘れたものらしいのですが、2世紀以上も動かされていないそうです。聖墳墓教会は複数の教派が共同管理しているので、どんなことでも各教派全部が合意する必要があり、もし、どこかの教派が勝手に動かすと大乱闘になります。結局、現状維持(Status Quo)の原則に従っているということです。

ヴィア・ドロローサの第10ステーションは、イエスが衣を脱がされたという場所で、下の写真の右端の階段を登った小さな聖堂にあるということですが、気がつきませんでした。

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第11ステーションは、イエスが十字架に釘付けされた場所、下の絵が掛けられています。

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そのすぐ左側に、第12ステーション、イエスが十字架の上で息を引き取られた場所があり、祭壇が作られています。

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ギリシャ正教が管理しているきらびやかな祭壇です。この十字架の真下にマークがつけられていて、その岩の上に、まさにイエスの十字架が立っていたとされています。更に、その両脇には、一緒に処刑された2人の盗賊の十字架の場所のしるしもつけられているそうです。

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第13ステーションは、十字架から降ろされて横たえられたところ。ここには、平たい畳ほどの大きさの茶色の大理石が置かれていて、巡礼者がひざまずいて祈りながら口付けしていました。

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最後の第14ステーションは、アリマタヤのヨセフに埋葬されたイエスの墓です。きらびやかな聖堂の中にあるのですが、長い列ができていて中に入るのには数十分待つ必要があるとのことで、私達は行きませんでした。

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この入口の中に、お墓があるそうですが、聖書に書かれたイメージとはまるで違います。

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以上が、ヴィア・ドロローサの10~14ステーションですが、聖墳墓教会の中には、他にも聖書にちなんだチャペルがたくさんあります。例えば、マグダラのマリアのチャペル、イエスの横で処刑された2人の泥棒の一人を記念した「良い泥棒のチャペル」、くじ引きで分けられたイエスの服を記念するチャペルなど、見に行きませんでしたが、なんでもありという感じです。

私達が最初に見に行ったのは、十字架と釘を発見し、この教会を最初に建設した皇后ヘレナを記念した聖ヘレナ・チャペルでした。アルメニア正教の美しいチャペルです。

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その聖ヘレナ・チャペルの下に降ると、Finding of the Cross Chapel(十字架発見チャペル)がありました。 祭壇には、十字架を抱いた聖ヘレナの像が置かれています。ここで、十字架の破片が発見されたそうで、その周囲の岩盤は、当時のままのようです。発見された十字架の破片はローマに運ばれ、”Holy Cross in Jerusalem” churchという教会に展示されているそうです。

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ゴルゴダの岩、つまり、第12ステーションのあるギリシャ正教の祭壇の下にあたる十字架が立っていたところの直下にChapel of Adam(アダムのチャペル)という聖堂がありました。伝承によれば、ここに人類最初の男、アダムの墓があったそうです。

そして伝承によれば、イエスが十字架上で息を引き取ったとき、地震が起こり、この岩にひびが入ったとのこと。ガラス越しにひびの入った岩が見えるようになっています。

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その話の信憑性は定かではありませんが、このあたりの岩肌から十字架の立っていたゴルゴダの岩を想像することができます。

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以上、見学したその時には良く分からなかったのですが、写真とネットと参考書をもとになんとか理解してみました。現在の聖墳墓教会は複雑できらびやかすぎて、上記の他にも数多くの各教派のチャペルが一杯あり、聖書から想像されるイエス様の十字架の様子とはかけ離れたもので、あまりピンときませんでした。 しかし、ヴィア・ドロローサが考古学的に疑問があるという説が多いのに対して、イエスの十字架と墓がこの場所にあったという説は多くの学者が支持しているようです。

紀元66年の様子を再現したエルサレムの50分の1モデルでは、ゴルゴダの岩は下の写真のようになっています。イエス様が十字架に架けられたゴルゴダの丘というのはさびしい高い丘の上に3本の十字架がそびえているというイメージがあったのですが、このモデルでは、あまり高くない岩の上に立てられ、道行く人々に見られる場所にあったと言う事になります。また、十字架刑を言い渡されたのがヘロデ宮殿の中だったとすれば、そこから約300mくらいを十字架を背負って歩かれたことになります。

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AD135年に第2次ユダヤ反乱(バル・コクバの乱)を鎮圧したハドリアヌス帝は、ユダヤ人の反乱の原因はユダヤ教にあるとして、ユダヤ教を禁止しユダヤ人を町から追い出しましたが、キリスト教徒の敬慕の的となっていたゴルゴダの岩とイエスの墓も土で被い、その上にユピテル(ヴィーナス)の神殿を建てました。下の図のような壮大なものだったようです。(「聖都エルサレム5000年の歴史」より)。それがかえってイエスの墓を示す目印になり、皇后ヘレナによる十字架発見に結びついたとのことです。

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紀元313年にキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は、326年にはローマ帝国領内から異教の神殿を除去するよう命じ、ハドリアヌスによって建てられたヴィーナス神殿を破壊し除去させました。このとき「一つの墓がキリスト自身が生命を取り戻したように姿を現した」そうです。ゴルゴダの岩の場所は、前8世紀から前1世紀頃まで建築用の石切り場だったそうですが、その後は庭園または果樹園になり、共同墓地にもなったということです。このことは、ヨハネ19:41の”イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。” という記述に合致し、発見された4つの墓のうちの一つがイエスが埋葬されたアリマタヤのヨセフの墓とされたそうです。(以上、「聖都エルサレム5000年の歴史」より)

今まで、コンスタンティヌスとかヘレナという名前は殆ど知りませんでしたが、どういう人物だったのか興味が沸いてきました。

最初の聖墳墓教会は335年に完成し、皇帝自ら臨席して献堂式が行われたそうです。その頃の聖墳墓教会の推定復元図が、「図説聖書の大地(ロバータ・L・ハリス著)」という本に載っていましたので、ご参考までに添付しておきます。

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この教会は、その後、614年にササン朝ペルシャ軍に破壊され、数年後大司教ザカリア・モデストにより、縮小再建されました。しかし、1009年には、エジプトのカリフ・ハーキムによって破壊され、1048年、ビザンチン皇帝コンスタンティヌス・モノマクウスにより再建。その後、十字軍時代に大規模に改造され、再建が繰り返されましたが、1808年の大火で大破。2年後の1810年に再建されました。現在は、いろいろなチャペルを持つ複雑な構造の建物を、ローマカトリック、アルメニア、シリア、コプト、ギリシャ正教の各派が共同管理しています。

 

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