Temple Mount(神殿の丘)

訪問日: Wed, 27 Feb 2013

エルサレムでの2日目、この日は「神殿の丘(Temple Mount)」見学から始まります。

神殿の丘の全景は、前日にオリーブ山から見ました。(クリックすると大きくなります。)

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真ん中に光る金色のドームは、イスラム教の「岩のドーム」ですが、この丘に最初に神殿を建てたのは、ダビデ王の息子のソロモン王で、紀元前10世紀のことでした。この神殿は「第一神殿」と呼ばれており、専門家は次のような想像図を描いています。イスラム教の管轄する場所なので、発掘は許されておらず、当時の遺跡は発見されていません。(出典1:「図説聖書の大地(ロ バータ・L・ハリス著)」より)

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第一神殿は、BC587年の夏、バビロニア軍の攻撃によりエルサレムが陥落した時に破壊されました。 そして、多くのユダヤ人がバビロンへ捕囚されました。

その後、ペルシャのキュロス王はバビロニアを倒して巨大帝国を築き、BC538年からユダヤ人の帰還が許されました。エルサレムに帰還した人々は神殿の再建を行いBC515年に完成させました。これが「第二神殿」と呼ばれるものですが、ソロモン王の第一神殿に比べると簡素なものだったそうです。また、この遺跡も見つかっていません。

BC40年、ローマ帝国の支援を受けてユダヤの王位に着いたヘロデ大王(在位BC37-BC4年)は、BC20年頃に神殿の大拡張・大改修工事を開始し、ヘロデの神殿と言われる立派な第二神殿を造りました。その工事はヘロデ大王の死後も続けられ、約80年を費やしてAD64年にヘロデ・アグリッパ2世の時に完成しました。2000年前のイエス・キリストの時代に建っていたのは、このヘロデ大王の神殿です。

次の写真はこの「第二神殿」の1/50モデルです。

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しかし、この立派なヘロデ神殿も、完成4年後のAD70年にローマ軍によって破壊されてしまいました。

神殿の丘は、その後しばらく廃墟でしたが、(ハドリアヌス帝の時にローマのユピテル神殿が建てられたという説もあり??、それもビザンチン時代になって破壊された??)、ビザンチン時代が終わり、イスラムがエルサレムを支配した時に「岩のドーム」が建てられました。その後、十字軍がエルサレムを支配していた時(AD1099-1291)は、「岩のドーム」はキリスト教の「主の神殿」に変えられ、神殿の丘には十字軍の本部としてテンプル騎士団が置かれましたが、イスラムが十字軍を撃退した後は再びイスラムの支配下におかれ元に戻されました。

下の地図は、現在の神殿の丘の地図です。(出典2:National GeographicのThe Old City Jerusalemより)

私達は、左下の「嘆きの壁」の上にあるモロッコ門を通って中に入りました。青い矢印が見学の行程です。

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これは、前の日に撮った「嘆きの壁」の写真ですが、右側に見える長い橋が「神殿の丘」に入る通路で、その橋の先にモロッコ門があります。モロッコ門という名前は、昔、このあたりにモロッコから来た人たちの居住地区があったためとか。

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神殿の丘には、朝早く行きました。モロッコ門に入る陸橋の上から左手を見ると「嘆きの壁」の前で祈っている人たちが見えます。現在、午前8時50分頃です。 神殿の丘のオープン時間は、冬季は朝7:30-10:30と12:30-13:30で、金曜と土曜はクローズしています。訪問のタイミングが難しいと思いますが、さすが、恭仁子さんは上手にスケジュールしています。

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その陸橋から右手を見ると、西壁の南端のロビンソン・アーチの取り付け部分や、その下の考古学公園が見えます。すぐ手前のところは、まだ発掘中で大勢の作業員が働いていました。

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モロッコ門を抜けて、神殿の丘に入ったところです。入門の持ち物チェックは厳重でしたが、それほど待たずに中に入ることができました。ここから先は聖書の持込は禁止されているとの事で、聖書ソフトの入ったタブレットPCはホテルにおいてきました。しかし、アイパッドを持った観光客もいましたが、特に注意されることもなく持ち込めたようです。

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モロッコ門から入ると、広々とした広場があり、たくさんの大理石のコリント式柱頭が並べられています。このあたりは、神殿の丘の南端にあたり、ヘロデ時代の第二神殿の「王の柱廊」があったところです。

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「王の柱廊」というのは、下のヘロデ時代の地図では下の方に描かれていますが、神殿の丘の南側の壁全体に沿って建てられた4列(各列40本)で、高さ9mもある大理石の円柱によって支えられた長い建物です。(出典3:「聖地エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」より)

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下の想像図の右側の壁に沿って建っているのが「王の柱廊」です。ここは、神殿にささげるための半シェケルに両替する場所だったり、ささげ物にする動物の売買が行われた場所だったり、また、AD30年頃以降は、ユダヤ最高法廷であるサンヘドリン(70人議会)として用いられたとのことです。つまり、イエス・キリストとは大変関係の深いところで、最後の受難週での次のような出来事もここでなされたと想定されています。その下には、南壁の大階段があります。

” それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」 また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。(マタイ21:12-14)

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たくさん並べられているコリント式の柱頭は、この「王の柱廊」に使われていたものと思われます。

更に進むと、右手にアル・アクサー・モスク(「至遠のモスク」の意)が見えてきます。第二神殿時代の「王の柱廊」のあった場所に建っている大きなモスクです。

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東ローマ帝国の東方の属州は、ササン朝ペルシャによって侵略を受け、エルサレムもAD614年に40日間の包囲の後陥落、ほとんどの教会や修道院は破壊されて焼かれ、多くの市民や修道士が殺されました。その後、AD628年にビザンチン皇帝ヘラクリウスはペルシャ軍を撃退してエルサレムを奪還しましたが、それもつかの間で東方アラビヤに興った嵐のようなアラブ・イスラム遠征軍の侵略を受け、AD637年に敗れました。250年続いたビザンチン帝国のパレスチナ支配はこれで終わりました。

エルサレムを占領したイスラムの第二代カリフ、オマル・イブン・アル・ハッターブ(在位634-644年)は、キリスト教徒やユダヤ人に対して比較的寛大な態度を示しました。例えば、イスラムの優位性を示す差別法を制定し、これを守り所定の人頭税を支払う限り、保護し信教の自由も認めるとしました。

イスラム教は、アラビヤ半島のムハンマド(モハメット)によってAD610年に始められ、ムハンマドの生地であるメッカが一番の聖地とされています。アラブ軍の勝利者であるカリフ・オマルは、エルサレムに入城後、神殿の山を視察し、丘の上に積もった瓦礫の山を取り除いたところ、現在「岩のドーム」に保存されている岩が姿を現したということです。カリフ・オマルは、この岩の南にモスクを建てました。これが、現在のアル・アクサー・モスクの前身だそうです。

アル・アクサー・モスクの西の壁際では、多くのイスラム教徒の女性のグループが集会をしていました。

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アル・アクサー・モスクは、最初に建てられた時は粗末なものだったそうですが、何度も地震にあって繰り返し修理されました。また、十字軍が占領した時代にはテンプル騎士団の司令部や厩舎としても使われました。サラーフ・ディーン(サラディン)がエルサレムを再占領した後には大修理が行われ立派なモスクに再建されました。その後もいろいろな王朝によって修理が繰り返されましたが、1928年と1937年に地震にあって大破し再度修復されました。最近では、1969年に放火事件が起こっています。何度も修復改築が繰り返されたため、複雑な構造になっています。

現在のアル・アクサー・モスクの正面です。

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木陰には男性のグループが集まっていました。

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また、たくさんの女子学生も集団で訪問していました。

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現在の神殿の丘の中心には、金色に輝く「岩のドーム」があります。これは、ムハンマドが一夜の旅で昇天した場所とされる聖なる岩を保護するために、ウマイヤ朝の第5代カリフのアブド・エル・マリク(在位685-705年)によって建てられました。それ以来、エルサレムは巡礼地メッカの代用地と指定され、メッカ(ムハンマドの生地)、メジナ(ムハンマドの墓)に続くイスラム教の第3の聖地とされました。

もともとユダヤ教の伝承では、この岩は「基礎石」と呼ばれ、世界の絶対的中心とされていて、「西壁トンネル」のこの岩に一番近いところには祈りの場があります。昨日見学した時もユダヤ教徒が熱心に祈っていました。ユダヤ人は神殿の丘で祈ることが禁止されているので、「嘆きの壁」とか「西壁トンネル」で祈っているのです。

聖書では、この岩は、アブラハムがイサクを捧げたモリヤの山とされるところで、ダビデが主の祭壇を築くためにアラウナの麦打ち場を買った場所とされています。

”こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。”(歴代史第二3:1)

「岩のドーム」の建設は、ウマイヤ朝のアブド・エル・マリクによるものですが、費用はエジプトによって支払われ、7年を要してAD692年に完成しました。

1099年に十字軍がエルサレムを占領すると、ドームの上に十字架をつけ、岩から切り出した石で祭壇を作り、モスクを教会に変えて「主の神殿」と名付けたそうです。

1189年に十字軍を破ってエルサレムを占領したサラーフ・ディーン(サラディン)は、十字軍の祭壇を除去し、モスクをもとの形に戻し、ムスリムの礼拝所として回復しました。

岩のドームは何度も修理が繰り返されましたが、現在の黄金に輝くようになったのは、ヨルダン政府が1952年から大改修を行って円柱やモザイクなどを新しくし、ドームの屋根が金色のアルミ板に取り替えられた1964年からです。1967年の六日戦争の結果、エルサレム旧市街はイスラエルの支配下になりましたが、神殿の丘だけは平和を保つためにイスラムの支配下に置かれました。そして、1992年には、ヨルダンのフセイン国王がイギリスに所有していた邸宅の一つを売って80Kgの金を買う資金を提供し、ドームの屋根を金箔で覆い、現在の黄金に輝くドームとなったそうです。

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「岩のドーム」の大きさは、聖墳墓教会の大ドームと、内径も高さもほぼ同じだそうです。それで、キリスト教の教会と張り合って建てられたとも言われています。

「岩のドーム」のすぐ東に建っている小さなドームは、「鎖のドーム」と呼ばれるもので、「岩のドーム」と同時期に建てられ、ムスリムの宝物庫として使われたそうです。宝物は後に市中に移されましたが、トルコのスレイマン大王は1561年に美しいタイルでドームを被いました。

ユダヤの伝承では、この場所に契約の板とアロンの杖が納められていたとされ、また、サレムの王メルキゼデクの祭壇があったとされているそうです。

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「岩のドーム」の東の城壁には「黄金門」があります。この門は第二神殿時代の門の廃墟の上に、AD6-7世紀頃建設され、アイユーブ朝かマルムーク朝のAD16世紀に完全に閉じられました。

第二神殿時代の東の門は、ユダヤ人がバビロン捕囚から解放されて帰還し、ペルシャ王室から第二神殿建設を許され、そのために資金も与えられたことを感謝して「シャシャン門」と名付けられました。シャシャンとは古代ペルシャの首都スーサのことです。ユダヤ教のミシュナに「シャシャン王宮が描かれた東の門」と記されたその門は、使徒行伝3:2で、ペトロとヨハネが神殿に参拝したときに、生まれつき足のきかない男を癒したと書かれている「美しの門」だと言われています。現在は、黄金門と呼ばれていますが、もともとギリシャ語で「美しい」を意味するホライアというのが、ラテン語で「金」を意味するアウレアに置き換わって「黄金門」となったそうです。

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この門は、イエスが「しゅろの日曜日」に、ろばの子に乗ってエルサレムに入城した門と言われています。しかし、この門への上り口はあまりにも急斜面であり、マザールなどの学者は、南壁の大階段の上にある「2重門(フルダ門)」からエルサレム入りしたと考えているそうです。

また、エゼキエル書によるユダヤの伝承では、メシア到来の日にこの門は再び開かれるとされています。

(エゼキエル書44:1-3)”彼が私を聖所の東向きの外の門に連れ戻ると、門は閉じていた。主は私に仰せられた。「この門は閉じたままにしておけ。あけてはならない。だれもここからはいってはならない。イスラエルの神、主がここからはいられたからだ。これは閉じたままにしておかなければならない。君主だけが、君主として主の前でパンを食べるためにそこにすわることができる。彼は門の玄関の間を通ってはいり、またそこを通って出て行かなければならない。」”

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私達は、「岩のドーム」の少し北にある「霊のドーム」と言われる小さなドームに向かいました。

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このドームは、八本の大理石のアーチで支えられていますが、その床の自然石がむき出しになっています。

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第二神殿の位置については、いろいろな説がありますが、「岩のドーム」の岩に神殿の祭壇が建っていたとする説には異論が多いそうです。ヘブライ大学のA・S・カウフマン教授によれば、第二神殿は「岩のドーム」の北側にあって、この「霊のドーム」が至聖所の跡だったということです。

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この「霊のドーム」の真東に、先ほどの「黄金門」、つまり、第二神殿時代の「東の門」があるので、この説は大変真実味があります。明石牧師も、これが本当であれば、「岩のドーム」を壊さなくても神殿を再建できることになると話していました。

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私達も感激して、露出した岩肌を何度も手で触った後、「霊のドーム」を後にしました。

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「霊のドーム」から出口に向かう途中に広い階段があります。この階段の一番下の段の石が他の段の石に比べて古く大きいように見えます。明石牧師のお話では、この場所にソロモンの作った第一神殿を囲む擁壁が埋もれていて、その一番上の部分がこの段にあたるという説があるそうです。もしそうだとすれば、この下を掘れば凄いものが発見されると思いますが、現在は発掘が許されていません。

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神殿の丘の西北の出口に向かいます。入るときは厳重な検査がありましたが、出るときは簡単です。

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出ると、そこは、アラブの商店街。

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お菓子や生ジュースや雑貨など、安く売られています。

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再び、南側のユダヤ人地区に入り、「嘆きの壁」の広場へ戻りました。正統派ユダヤ教徒の人々がたくさんいます。次は、「嘆きの壁」の見学です。

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「神殿の丘」の歴史を垣間見るだけで、侵略や虐殺、破壊や再建、イスラム教とユダヤ教とキリスト教が複雑に絡み合っていて、めまいがしそうです。エルサレムの平和のために祈ります。

” エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」(詩篇122:6-7)

同時に、より深く聖書を学び、「日本の霊的覚醒、ユダヤ人の救い、メシアの再臨」を祈ります。(ハーベスト・タイム・ミニストリーズの再臨待望聖会より)

(ここまでの「神殿の丘」の説明の多くは、出典3:「聖地エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」から引用しました)