Wailing Wall(嘆きの壁)

訪問日: Wed, 27 Feb 2013

神殿の丘から出て、ユダヤ教の聖地として有名な「嘆きの壁」の前の広場に戻りました。ここは、シナゴーグと同じく、男性と女性の場所が別になっています。男は頭に帽子をかぶらなければいけません。

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下の写真は、神殿の丘への陸橋から見た「嘆きの壁」です。下の右側に塀がありますが、その塀の左側が男性用、右側が女性用の祈りの場所です。その壁の長さは合わせて55mで、西壁全体の長さの485mの約八分の一です。現在見える壁の高さは17mですが、下部7層がヘロデ時代のもので、その上の4層はローマ時代またはビザンチン時代、さらに上の小さい石で積み上げられた部分はアラブ時代おそらくマルムーク時代のものと言われています。また、1967年の六日戦争に勝利し、この地がイスラエルの支配下になった時に、地面が1m以上掘り下げられましたが、その部分が壁の下部の黒ずんだ部分と思われます。左側の壁に直角につながる建物の下にはウィルソン・アーチがあります。

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「嘆きの壁」の前では、大勢のユダヤ人が祈りをささげています。

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聖書を持って、体をゆすって、テレビなどでよく見た祈りの様子です。

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涙を流して祈っている人もたくさんいました。壁に積まれた巨大な石には、ヘロデ大王の建築物に特有の縁取りがされています。これらの切石の平均的重量は5~10トンもあり、最大のものは長さ12m、高さ3m、幅4mもあり、重さは約400トンと推定されていて、これらの石はダマスコ門の外にあるゼデキヤの洞穴から切り出されたものと考えられているそうです。

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塀越しに見た女性の祈りの様子です。

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男性の祈りの場所の左側にはウィルソン・アーチがあって、その下がシナゴーグになっています。

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そこでも、多くのユダヤ人が祈りをささげていました。

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壁際には、ガラス越しに地下深くの壁が見えるようになっています。ヘロデ時代の建築当時は、地面の位置は21mも下にあったので、19層の石の層が地下に埋もれているとのことです。

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さらに奥の部屋では、大勢の子供達が座っていて、なにやら教育を受けているようです。

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小さなかわいい男の子たちで、皆おそろいの服を着ています。ユダヤ教の正統派の身なりをした人が、ひとりづつ順番に指導しています。

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そして、立ち上がって輪になって踊り始めました。何か宗教的な教育をしているようでよく分かりませんが、和やかな雰囲気で楽しそうでした。イスラエルの人々は、子供の教育に大変熱心で、子供を可愛がって育てている様子をあちこちで見受けました。私達も見習いたいと思います。

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女性の側の入口です。

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壁際では、同じように熱心な祈りが捧げられていました。

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また、こちらでも子供達の教育がしっかりされていました。皆、立派な本を持っています。

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モーゼ5書の一部でしょうか、美しいヘブライ語で書かれています。また再び来ることができるのであれば、その前には少しヘブライ語を勉強してみたいと思いました。

” あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。” (申命記11:18-19 )

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よく見ると、「嘆きの壁」の石の隙間にはたくさんの紙切れが押し込まれています。昔から、願いごとを書いた紙片を石の間の隙間にはさんでおく習慣があるそうです。

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「嘆きの壁」はヘロデ大王の建てた第二神殿を支えた石壁のごく一部です。これが、何故ユダヤ教の聖地となり、多くのユダヤ教徒が熱心に祈りをささげているのでしょうか?

それを知るには、その歴史を知る必要があります。

神殿の丘は、そもそもソロモンが紀元前10世紀にイスラエルの神の神殿を建てたところで、ユダヤ人の聖地でした。しかし、第一神殿はBC586年にバビロニア軍に破壊され、再建された第二神殿もローマ軍によって紀元70年に破壊されました。ユダヤ人はそれ以来、エルサレムから追放され、神殿の丘で礼拝することはできなくなりました。どちらの神殿もアブの月の9日(現在の暦の7月~8月頃)に破壊されたため、この日は「神殿崩壊記念日」という悲しみの日で、世界中のシナゴーグで断食と哀歌の朗読がされるそうです。

7世紀のイスラム支配の時代になってユダヤ人はやっとエルサレムに再定住できるようになりましたが、岩のドームとアル・アクサー・モスクが出来てからは神殿の丘に立ち入ることができなくなり、神殿に一番近い西壁で祈るようになりました。

12世紀の終わり頃には、北アフリカ出身のイスラム教徒が住むムグラビ(アラビア語でモロッコの意)地区が西壁のすぐ前に設けられて住居が立ち並んだり、ラクダの糞などで覆われていったりしました。

1518年のオスマン・トルコ征服後、エルサレムを占領したスルタン・セリム一世は、埋もれた西壁の「嘆きの壁」部分を掘り出し、そこでユダヤ人が祈ることを許しました。それ以後、西壁はユダヤ人の特別な神聖区域として重要視されるようになりました。

その後も「嘆きの壁」の使用をめぐって、アラブ人とユダヤ人の間にしばしば対立が生じました。1920年にはイスラムの指導者ムフティは、ユダヤ人の祈る場所をできるだけ制限し、長さ30m、幅4mという狭い路地だけにしたということです。1929年にはアラブ人が祈っていたユダヤ人を襲撃して多数の死傷者をだした「嘆きの壁」事件が起きました。この解決のため1930年にエルサレムで国際委員による会議が行われ、ユダヤ人が壁の前に椅子をおいて祈る権利が認められました。

1947年には、再びアラブ人とユダヤ人の衝突事件が起きました。そして、1948年5月にイスラエルが独立しましたが、この地区はヨルダン領となってユダヤ人は西壁に近づけなくなりました。

しかし、1967年の第3次中東戦争(六日戦争)の三日目に空挺部隊によってイスラエルはこの地区を占領し、20年ぶりに「嘆きの壁」で祈ることができるようになりました。まもなく、壁の前のムグラビのスラム街は撤去され、現在の大広場に変えられました。

現在の西壁広場は10万人を収容できると言われています。ユダヤの成人式であるバル・ミツバのセレモニーや結婚式なども行われ、祈りの人々に混じって多くの観光客で賑わうところとなりました。

民間説話によれば、夜になるとイスラエルの民を象徴した一羽の鳩が壁のところに現われ、神殿の喪失とイスラエルの捕囚を悲しんで泣くということです。イスラエルの平和のために祈ります。

(以上の説明内容は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」から引用しています。)