Alone on the Walls Museum(「城壁での孤立」博物館)
訪問日: Friday, 1 Mar, 2013
「焼けた家」と「ウォール博物館(ヘロデ時代の高級住宅)」を見学した後、3番目のAlone on the Walls Museum(城壁での孤立博物館)へ行こうとした時には昼の12時を過ぎていました。どこにあるか聞いたところ、今誰もいないから鍵を開けてあげるとのことで、受付の女性に連れて行って貰いました。そこはビルの一階にある小さな部屋で、壁にはたくさんの写真が貼ってありました。受付の女性は、まずビデオを見ましょう、と言って短いドキュメンタリーを映し始めました。
”Alone on the Walls”というのを何と訳したらいいのか、「城壁での孤立」としてみました。
この博物館に展示してある写真は、1948年の5月、イスラエルが独立した直後に始まったアラブ諸国からの攻撃(第1次中東戦争=独立戦争)で、エルサレム旧市街のユダヤ人地区が陥落した時に撮られたものです。
撮影したのは、John Phillipsという写真家です。以下、下の説明を翻訳。
”アメリカのフォト・ジャーナリスト、John Phillipsは1947年12月にローマにいた。彼は、ティトス帝の凱旋門のところで、ユダヤ国家独立に関する国連の決議を喜んでいるユダヤ人グループに出会った。第二神殿時代にユダヤ人をエルサレムから追い出した象徴である凱旋門の下で、彼らは「ユダヤ国家が1877年ぶりに再生する!」と叫んでいた。” (注: この凱旋門は、AD70年にローマ軍がエルサレムを陥落させた後、そのときの将軍であったティトスがローマに戻った後に建てられたもので、内側にはローマ兵が神殿からメノラーを持ち出す壁画が描かれています。)
1948年の5月19日、Phillipsはエルサレムの旧市街を攻撃しているアラブ軍に参加した。アラブの軍服を着ていたので彼は戦闘地域を自由に動き回ることができた。
戦いの10日目の5月28日金曜日、Phillipsのカメラは、ユダヤ人地区が刻一刻、陥落していく様子をとらえていた。
1975年になって、Phillipsはエルサレムに戻り、あの運命の日に撮影した人々を探しはじめた。そして、その結果をイスラエル博物館に展示し、「The Will to Live(生きる意志)」という本にまとめた。”
部屋の壁には、1948年5月28日に撮られた写真が、時間帯ごとに分けられ、説明付きで展示されています。
ドキュメンタリー・ビデオが始まりました。英語でしたが、ヘブライ語の解説も多く、見たときは良く分かりませんでした。再度、イスラエルの歴史を学びながら思い返してみました。
これは、独立戦争前のエルサレムの様子でしょうか。
独立戦争前のイスラエルは、英国の委任統治時代で、英国のアレンビー将軍がトルコ軍を破って、1917年にエルサレムに入城した時から始まり、1948年5月14日のイスラエル独立直前まで続きました。
ユダヤ人の英国統治に対する反発が激化し、英国はついにパレスチナ委任統治の放棄を決意し、1947年に国連に委ねました。国連総会では、特別委員会で議論され、パレスチナをアラブとユダヤの2国家に分割する、いわゆる「パレスチナ分割案」を上程し、1947年11月29日に可決されました。この案はアラブ諸国はすべて拒否しましたが、ユダヤ側は受け入れました。
下の写真は、この国連決議が出されたことを喜ぶユダヤ人たちの様子ではないかと思います。ヘブライ語が分からないので、違うかもしれませんが。
しかし、独立宣言発表と同時に、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラク、サウジアラビアの6カ国の連合軍が、独立したばかりのイスラエル軍に侵攻し、第一次中東戦争(イスラエルでは独立戦争とよぶ)が勃発しました。
兵力においても兵器においてもはるかに劣勢なイスラエル軍は各地で苦戦しました。エルサレム旧市街城壁内のユダヤ人地区も完全にアラブ軍に包囲され、27のシナゴーグが焼かれ、救援に駆けつけたハガナー(イスラエルの民兵組織でイスラエル軍の前身)の士官と多数のユダヤ市民の犠牲者を出し、5月28日に陥落しました。独立戦争における最大の悲劇でした。
ビデオでは、この時の生存者数名へのインタビューがありました。下の写真の人は当時19歳でイスラエル軍の士官でした。
この人も、生存者の一人ですが、ヘブライ語の説明なので良く分かりませんでした。
短いビデオの後は、写真コーナーを見ます。
このコーナーは、「降伏 5月28日9:00-17:00」。
”地区の広さは20dunam(5エーカー)ほどに狭められ、防衛軍の残りの銃弾は一時間分しかなかった。2人のラビが死者や負傷者の運び出しの交渉を始めたが、ヨルダンの司令官であるアブダラ将軍は無条件降伏を要求した。多くの市民が避難している場所に防衛軍が閉じ込められたとき、降伏はもう避けられなかった。ユダヤ人地区の司令官Moshe Rosnackは、降伏文書にサインした。”
次のコーナーは、「追放と捕虜への道」。5月28日17:00-18:00の様子です。
”約25のハガナーの部隊はBatei Mahse広場にばらばらになって集まった。アラブ軍のアブダラ将軍は兵士の人数が少ないのに驚いて、住民から290人の男を捕虜に加えるように命じた。
戦争犯罪人はヤッフォ門近くにある警察の小部屋に連れて行かれた。残りの住民たちには、一時間で持ち物をまとめてBate Mahse広場に集まるよう命じられた。それは金曜日の夕方で、安息日はすでに始まっていたが、暗闇がこの地区でのユダヤ人の最後の日に襲い掛かり、何年も続くことになった。”
広場に集められたユダヤ人たち。
広場で、次の決定を待つユダヤ人たち。
次は、「ユダヤ人地区最後の瞬間」 5月28日 18:00です。
旧市街から出て行くラビのZelig Kanielと妻Eidelle。
旧市街を出る7歳のRachel Levi Maatok。
これらの名前の書かれた人々は、助かって、後にPhillipsに会ったものと思われます。
エルサレム新市街をめざしてシオン門に押し寄せる人々。
避難民たちの最初の波が旧市街と新市外の境界にあるシオン門に到着しました。この門を通り抜ければイスラエル領内に入れます。何人かが振り返っています。悲しげな少年が振り返っています。少女はおびえて震えています。
「ユダヤ人地区の廃墟」 1948年5月28日
”ユダヤ人地区にいた住民は、シオン門を通ってイスラエル領内に入ることができました。一方、旧市街の警察署の小部屋で一夜を過ごした捕虜たちは、ヨルダンの野戦基地にある牢屋へ送られました。ユダヤ人地区は略奪され、破壊され、火を放たれました。この地区の戦いで69人の戦闘員が死にましたが、そのうちの半分は市民でした。独立戦争におけるユダヤ人地区での戦いは終わり、その後19年間、シオン門は閉ざされました。”
最後に、「ユダヤ人地区の崩壊」というパネル。
アラブ軍の総司令官、アブダラ将軍の言葉です。
「ユダヤ人たちは15世代の間で始めて西壁とユダヤ人地区から一掃された。私は、この陥落は、特に士気の面から、ユダヤ人への最も激しい一撃であると思う。」
「ユダヤ人地区は破壊された。どこにも壊されていないところはない。すべてがことごとく破壊されたのでユダヤ人が戻ることは不可能である。」
このパネルの一番下にさりげなく一行次のように書かれ、3枚の復興後の写真がありました。
”よみがえったユダヤ人地区”
ユダヤ人地区は、1967年6月7日、第三次中東戦争(六日戦争)で奪回されました。
小さな博物館でしたが、よく見てみると深い内容のものでした。直前に見た「焼けた家」は、それより1900年前のAD70年にローマ軍によって焼かれたものですが、同じ地区で同じようなことが起こったことを知りました。「エルサレム」というのは、「平和の神」という意味ですが、本当の平和はやはり主の再臨を待たねばならないのでしょうか。
”エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」” (詩篇122:6-7)
[show_google_map width=660 height=660 lat=31.775588 lng=35.2309782 [/show_google_map]