The Ramparts Walk(城壁歩き)

訪問日: Friday, 1 Mar, 2013

この日の午後は、エルサレムの旧市街を取り巻く城壁の上を歩きました。入口は、ヤッフォ門の内側の角を北に入ったところにあります。ダマスカス門経由ライオン門へ向かう北回りと、シオン門経由糞門へ向かう南回りがあって、北周りの方が人気があるようなのですが、この日は金曜日、イスラムの礼拝日だからなのでしょうか、ムスリム地区を通る北回りは休みでした。やむなく、下の青い矢印のように南回りを歩きました。ちなみに、城壁を一周すると約4.5kmあるとのこと。

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入口を入ると、ヤッフォ門の南にあるダビデの塔の横を通ります。下の写真にあるのは、ダビデの塔の南側にあるトルコ時代(17世紀)に建てられたミナレット。

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城壁の上は兵士が通るための長い通路になっており、両側は厚い石の壁になっています。

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北西方向を見たところ。上方の城壁の中はキリスト教徒地区、その手前の陸橋の下から左上方に向かう大きな道路はヤッフォ通りです。
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要塞の城壁ですから、銃を撃つための隙間があちこちにあります。

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外側の壁には凸凹した隙間が続いていて覗いたり銃を撃ったりできるようになっています。

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高さは一番高いところで15mとのこと。コンクリートのない時代に石を積んだだけでよくこんなに高く垂直に持ちこたえられるものだと感心させられます。

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城壁上の道は、片側しか壁のないところがありますが、観光客向けに手すりがつけられています。

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西側の城壁を南へ歩きます。

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旧市街を取り巻く城壁の南西角です。

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南西角の内側です。緊急事態発生時にはこの階段を兵士が駆け上がったことでしょう。

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このあたりの城壁の内側は、現在はアルメニア人地区で、キリスト教会がたくさんあり、教会の墓地がありました。

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十字架があるクリスチャンのお墓です。

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城壁の南側にはマリア永眠教会の大きな青い屋根の礼拝堂が見えます。マリア永眠教会のあたりは、シオンの丘と呼ばれ、紀元一世紀のヘロデ時代には城壁の中にありました。

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マリア永眠教会の敷地内にもたくさんのお墓がありました。マリアと一緒に永眠したい人々の墓なのでしょうか。

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東に進むと、鶏鳴教会が見え、その向こうにヒンノムの谷と、その向こうの丘の家々が見えてきます。

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さらに東に歩いていくと、オリーブ山が見えてきました。

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ここから下りの階段を下りて城壁めぐりの出口に出ます。正面下方の混みあった建物があるところは、アラブ系住民の多く住むシルワンの町です。

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出口近くの城壁の内側に、下の写真のような遺跡が見えました。石の削り方がヘロデ様式のようにも見えますが、第二神殿時代のものでしょうか?

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糞門近くの出口の手前で、オリーブ山を望むところ。神殿の丘の南壁も見えます。

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歩き終わって、この城壁はいつ造られたものだろう? という疑問が発生。帰国後に調べてみました。

聖書によればエブス人を倒したダビデ王が城砦都市を築いてイスラエル王国の首都としたのがエルサレムで、紀元前10世紀のことでした。エジプトで発見されたアマルナ文書によれば、それ以前の紀元前14世紀頃にもエルサレムに都市国家があってエジプトと交流していたとのことです。

ダビデ王が築き、ソロモン王によって拡張されたダビデの町は、下の写真のような城壁に囲まれていたようです(ダビデの町の展示写真より)。この城壁は、その後どうなったのでしょうか?

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下の図は、ユダ王国時代のエルサレムの大きさを示す図です。「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」より。

要約しますと、”右が最小と思われる大きさ、左は最大と思われる大きさ。最初の頃は右の図の大きさの城砦都市だったのが、紀元前722年にアッシリアのよって滅亡した北王国の首都サマリアなどの町から多数の難民がエルサレムになだれ込んできたので、彼らを収容するためにエルサレムの拡張を余儀なくされ、テロピオンの谷を隔てた西側に居住区が拡張された。そして、ユダ王国のヒゼキヤ王の頃にアッシリアの侵攻に備えて新しい居住区も城壁で囲み要塞化した。1969年にアヴィガド教授によって発見された「広壁」もその遺構である。”

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その後、BC586年にエルサレムはバビロン軍の攻撃で破壊され、城壁も壊されて多くの民がバビロンへ捕囚されました。

BC539年、ペルシャのクロス王がバビロンを破り、ユダヤ人を帰還させました。その後、ネヘミヤの指導により城壁が再建されました。神殿はエズラの指導の下、BC515年に再建され第二神殿時代が始まりました。

BC142年からのハスモン朝時代から紀元1世紀のヘロデ大王の時代には、人口が3万人以上に増大し、城壁の拡張工事が順次進められました。下の図の第一城壁に加え、第二城壁が造られ、ヘロデ・アグリッパによって第三城壁が造られたとされています。

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その後、AD70年に、エルサレムはローマ軍によって破壊され、城壁も南側を除いて破壊されました。紀元2世紀にはローマ帝国の皇帝ハドリアヌスがエルサレムをローマ風の町に改造しアエリア・カピトリーナと名付けました。その後、キリスト教を中心とするビザンチン時代になり、城壁も下図のように改修されていきました。しかし、ササン朝ペルシャによって614年にエルサレムは陥落。ビザンチン帝国は628年に一旦エルサレムを奪回したものの、638年には東方アラビアに興った嵐のようなアラブ・イスラム軍に征服されました。

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1033年の大地震でエルサレムの要塞も城壁も破壊されましたが、翌年ファティーマ朝のカリフ、タヘルによって修復されました。

その後、スンニ派とシーア派との争いで何度も支配者が変わりましたが、十字軍が1099年にエルサレムを占領。十字軍は、非キリスト教徒住民を大量虐殺し、イスラム教の建物をキリスト教のものに変え、神殿の丘やダビデの塔を改築し要塞化しましたが、城壁は既存のものを使用したとのことです。

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エジプトでアイユーブ朝を興したサラーフ・ディーン(サラディン)が、1187年に十字軍を破ってエルサレムを占領し、88年続いたキリスト教支配が幕を閉じました。サラーフ・ディーンは城壁を研究して再建・強化しましたが、1219年になってアイユーブ朝の支配者は十字軍が再攻撃してくることを恐れ、その時は市を焼き払う「焦土作戦」を決行することに決めて城壁を取り壊し、町を非要塞化しました。ほんの短期間、エルサレムは十字軍の支配下になりましたが、1244年イスラム教の侵入者によって滅ぼされ、しばらく荒れたままでした。

1250年にアイユーブ朝が崩壊し、同じくエジプトで興ったマルムーク朝の時代が始まるとエルサレムもこの支配下に入り、オスマン・トルコの1517年の征服まで続きました。この間、エルサレムは荒れ果てた無城壁のままでした。

小アジアに興ったオスマン・トルコ帝国は、1453年にビザンチン帝国を滅ぼし、エジプトのマルムーク帝国も倒し、1517年にエルサレムを支配下におきました。この後、第10代スルタン、スレイマン一世(壮麗王と呼ばれた1494-1566)は、彼の最大の事業であるエルサレム旧市を取り囲む城壁の再建を1536年に始めてわずか5年後の1541年に完成させました。また、ライオン門をはじめ、現在見られる主要な門もオスマン朝建築の独特の様式で造られました。

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というわけで、今日見られる旧市街の城壁は、このスレイマン大王が造ったものです。スレイマン大王は、城壁の建設に当たって、ダビデの町やシオンの丘など、第二神殿時代に城壁内にあった広い範囲を含むことを計画していましたが、どういうわけか建築家が間違え、現在の狭い範囲のものを造ってしまいました。これを知ったスレイマン大王は檄怒してその二人の建築家の首をはねてしまったそうです。今でもこの建築家を葬ったお墓が城壁の外にあるそうです。優秀な建築家だと思いますが、気の毒なことですね。

以上の内容は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」を参考にしました。