Abshalom’s Tomb(アブシャロムの墓)

訪問日: Sat. 2 March, 2013

ロックフェラー博物館を出て、旧市街の城壁北側のスルタン・スレイマン通りを東に進むとケデロンの谷に突き当たり、道に沿って右へ下っていくと谷を横断してオリーブ山のふもとに出ます。

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オリーブ山のふもとには、「万国民の教会」の大きな建物があります。その手前左側には「マリアの墓の教会」というのがありますが、「マリア永眠教会」との関係はどうなのでしょうか?トルコのエフェソにも「マリアの墓」といわれるものがあります。マリアの両親のヨアヒムとアンナ、そして、マリアの夫のヨセフの墓もここにあるということですが、ちょっと怪しいですね。坂の上に見える金色のねぎぼうずの塔がある建物は、ロシア正教の「マグダラのマリア教会」です。マグダラのマリアは、復活後のイエスに最初に会いました。

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「万国民の教会」の正面です。ケデロンの谷を見下ろしています。

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その向かい側を見ると、オリーブの木がきれいに植えられたケデロンの谷の向こうに、神殿の丘の城壁が見えます。右側にあるのは閉ざされた「黄金門」。

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きれいな石だたみの道が続き、ケデロンの谷に延びています。

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その道を下っていくと、左側にとんがり帽子のような「アブシャロムの墓」が見えてきました。右側上方に見えるのは、神殿の丘の城壁の東南角です。

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「アブシャロムの墓」に到着。近くで見るとずいぶん大きいです。円錐形の上部構造と方形の下部構造とからなり、下部構造は高さ8m、全体の高さは16.5mもあるそうです。

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アブシャロムは、ダビデ王と妻の一人マアカの間にできた息子ですが、ダビデの教育が行き届かず、父に反抗して謀反を起こし、ダビデ王を城から追い出して王位につきましたが、その後、ダビデ王の家臣に打たれて死にました。BC10世紀頃の話です。

第二サムエル記 18:18には、” アブシャロムは存命中、王の谷に自分のために一本の柱を立てていた。「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから」と考えていたからである。彼はその柱に自分の名をつけていた。それは、アブシャロムの記念碑と呼ばれた。今日もそうである。” とあることから、この名で呼ばれるようになったということですが、実際に建てられたのは第二神殿時代末期(AD1世紀)、あるいは、ハスモン時代(BC2-1世紀)と推定されており、アブシャロムの墓ではないようです。

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内部は大きな空洞があり、さらに奥に埋葬室がありますが、保存状態は悪く、落書きが一杯されていました。

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それにしても、2000年も昔に、よくぞこのような大きな建造物を作ったものです。この辺りは岩山なので、角柱の下部構造は岩盤を削り出して作られましたが、円柱形の上部構造はその上に構築したものだそうです。

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この塔の後方に隣接する岩壁に大きな洞穴があり、入り口がふさがれていました。これは「ヨシャファトの墓」と呼ばれ、谷の崖を掘り抜いて造られた墓で、洞穴の中には8つの墓室があるそうです。王の墓のように立派に造られていますが、紀元一世紀に造られたものでユダの王ヨシャファト(新改訳ではヨシャパテ)(BC873-849)とは関係ないそうです。

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帰国後に読んだ「聖都エルサレム5000年の歴史」によれば、入り口の上にある切妻破風の三角形の浮彫は第二神殿のものと同様のヘレニズム様式の唐草模様を描いたすばらしいものだそうです。その時は全く気が付きませんでした。残念。

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ケデロンの谷とは、雨季に濁った水が流れることから、ヘブライ語で「濁った谷」という意味だそうですが、4世紀頃からヨエル書にある「ヨシャファト(主の裁き)の谷」と同一視されるようになったそうです。それで「ヨシャファトの墓」と呼ばれるとか。

” わたしは諸国の民を皆集め、ヨシャファト(主の裁き)の谷に連れて行き、そこで、わたしは彼らを裁く。わたしの民、わたしの所有であるイスラエルを、彼らは諸国の民の中に散らし、わたしの土地を自分たちの間に分配したからだ。”ヨエル書4:2(新共同訳)、新改訳では3:2

ユダの古い伝説では、復活の日にすべての人間がオリーブ山に集められ、向かいのモリヤの山(神殿の丘)に審判の座が設けられるそうです。そして、この二つの山の間に鉄と紙の二本の橋が架けられるが、異教徒は皆鉄の橋を渡るがその重さで橋が壊れ谷底に落ちてしまい、ユダヤ教徒は紙の橋を渡るが無事に永遠の生命に生きることができるとか。それで、このあたりにたくさんのユダヤ教の墓や棺があるのだそうです。

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さらに岩壁に沿って南へ下ると、もう一つ大きな石の塔がありました。これは、ゼカルヤの墓と呼ばれています。このゼカルヤは、ゼカリヤ書とは関係なく、第二歴代誌に出てくるゼカリヤだそうです。四画柱の上にピラミッド型の屋根があり、高さ9mある大きなもので、BC2世紀後半に造られたものだそうです。

“24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕らえたので、彼は民よりも高い所に立って、彼らにこう言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ、【主】の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。』あなたがたが【主】を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」
24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、【主】の宮の庭で、王の命令により、彼を石で打ち殺した。”(【新改訳改訂第3版】Ⅱ歴代)

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上の写真の左側に、ブネイ・ヘジル家の墓と呼ばれる大きな洞窟墓があります。正面に二本の円柱が立った立派な玄関があるのですが、写真が撮れていませんでした。これも、BC2世紀後半に造られたものとのことですが、入り口のヘブライ語の墓碑銘を解読すると、第一歴代誌に出てくるエルサレムの神殿に仕えた24組の祭司家のうちのヘジル家の墓と判読されたそうです。
”24:15 第十七はヘジルに、第十八はピツェツに、” (【新改訳改訂第3版】Ⅰ歴代)

下の写真はヘジル家の墓の内部だと思います。

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ケデロンの谷は、南に下っており、この先でテロピオンの谷、および、ヒンノムの谷と合流します。少し先の右側の丘が、ダビデ王国の首都、ダビデの町の跡が残っています。また、ギホンの泉がその下にあります。その左側は、オリーブ山のふもとにあるアラブの町、シルワンです。

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この道を谷に沿って下り、さらに右方向へ行くと、最後の晩餐の二階の部屋とか、カヤパ邸のあった鶏鳴教会があります。ということは、イエス・キリストは、最後の晩餐の後、この道を通ってオリーブ山に登って祈られ、捕えられた後は、この道を戻ってカヤパ邸に連れて行かれたのです!!

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