Emmaus(エマオ)

訪問日: Sun, Feb 14, 2016

ワイツマン研究所を出て、高速道路を経由し、ラトルンのインターチェンジまでは約30分ほどでした。そのすぐ近くに、エマオの遺跡があります。

入口を入ろうとすると、なんと、門が閉まっていました。看板を見てがっくり。この日は日曜日だったので閉館日でした。イスラエルでは土曜日が休日ですが、キリスト教関係は日曜日が多いようです。

イエス・キリストが十字架につけられ、意気消沈した二人の弟子がエルサレムを離れる途中に、復活したイエス様と出会い、共に食事をしたのがこの地エマオと言われています。

「 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカ 24:13-16)

この後、二人はイエス様と語り合った後夕食を共にし、イエス様がパンを祝福して裂かれるのを見て、やっとイエス様だと気が付きます。この二人のうちの一人がクレオパという名で、その実家がここにあったとされ、ビザンチン時代になって教会が建てられました。その遺跡がここにあるということなのですが、中に入れませんでしたので、biblewalks.comの写真を引用させて頂きます。

下の写真は、ビザンチン時代に建てられ、十字軍時代に再建された教会跡です。

次の写真は、Wikimedia Commonより引用。

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下の写真(これも、biblewalks.comより引用)に教会の構造が説明されていますが、かなり大規模な教会だったようです。

この教会は、AD4~5世紀頃に建てられましたが、AD634年にはエマオを征服したアラブ軍により破壊され、町の名もAmwasという名前(エマオと同義)に戻されました。その後、十字軍の時代に再建され、さらに再び、エジプトのイスラム勢力であるマルムーク朝に破壊されました。

埋もれていた遺跡は、1834年および1852年にアメリカ人のロビンソンに発見され、フランスのドミニコ会が1924-1930年にかけて教会を発掘、その後も何回も考古学的発掘調査が続けられています。

エマオという地名はギリシャ語で温泉という意味で、紀元前のヘレニズム時代から大きな町でした。しかし、AD70年にローマ軍がエルサレムを破壊してユダヤ人を追い出し、すべてをローマ風に変えた時に、この町の名も、”Nicopolis”(勝利の町の意)と変えられました。6世紀のイスラエルを描いたことで有名なマダバのモザイク画にも下の写真のように大きな町として描かれています。

この地が本当に聖書に書かれたエマオなのか? 問題は、ルカの福音書24:13に「エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村」と書かれていることです。このEmmaus/Nicopolisという場所は、エルサレムからは約30Km離れていて聖書の記述と違っています。また、エルサレムから10Km前後のところにあるエル・クベイベとかアブ・ゴーシュが聖書に書かれたエマオだという説もあるので、私もそちらの方が正解ではないかと思っていました。しかし、この場所のホームページ(www.emmaus-nicopolis.org)には、次のように書かれています。

「紀元4世紀頃のビザンチン時代から、ニコポリスが新約聖書のエマオとして、キリスト教徒によって崇拝され教会も建てられました。エルサレムからの距離については、古代の信頼できる写本、例えば、4世紀頃のシナイ写本とか、ウルガタ聖書の古代の翻訳では、160スタディア(約30Km)と書かれています。しかし、それ以降の大部分の聖書には60スタディア(約12Km )となっています。これは、なんらかの理由で、100という文字が削られたためと思われます。更に、紀元一世紀当時には、エルサレムの近辺でエマオと呼ばれるところはここニコポリスしかなかったので、この地がエマオであると考えられます。」

この遺跡の南側の小高い丘にはラトルン修道院がありますが、その近くを通る小道が聖書時代から変わらない昔の道のようでした。

下の絵は、スイスの Robert Zünd という画家が1877年に描いた「エマオへの道」という絵です。道の雰囲気が上の写真とよく似ています。

ルカの福音書に書かれた続きの部分は、次のようになっています。(ルカ24:17-32)

”イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」”

エルサレムから歩いて、イエス様とお話しして、夕刻になってエマオに泊まろうとしたわけですから、エルサレムから60スタディア(約12Km) では近すぎます。私は、160スタディア(約30Km)のこの場所が聖書にでてくるエマオではないかと思うようになりました。