The Burnt House(焼けた家)

訪問日: Friday, 1 Mar, 2013

昨日までのツアーでは訪問先の選定や内容説明はすべて恭仁子さんにお任せでしたので、この日は早速、どこへ訪問すべきかで悩みました。あまりイスラエルに関する勉強もしていませんでしたので、「地球の歩き方」とミルトス社の「聖書の歴史ガイド・イスラエル」が頼りです。検討の結果、泊まっていたゲストハウスから歩いてすぐのThe Burnt House「焼けた家」にしました。

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これは、紀元70年、ローマ軍の攻撃によって焼け落ちた家で、天井や壁は崩れ落ちましたが、それらを含めて灰の中に埋もれ、そのままの形で発見され博物館とされました。当時の地面は、現在の道路より6m下にあったので、ビルの地下にあります。この博物館の入口でチケットを買ったのですが、他の2つの博物館とセットで買うとお得ですよ、と勧められて、「ウォール考古学博物館」と「Alone on the Walls Museum」も含む3枚つづりのチケットを買いました。「ウォール考古学博物館」は既にツアーで見学していたのですが、中に入るまで気がつきませんでした。

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上の写真は、ローマ時代の水路の跡です。このあたりは、紀元1世紀頃の状態がそのまま残されています。

博物館の中に入ると、紀元70年に焼けた当時の部屋があります。右はキッチン、左は食堂とのこと。

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紀元70年のアブの月の第9日、ローマ軍は「下市」と神殿の丘を占拠し、神殿を破壊しました。「上市」は更に一ヶ月ローマ軍への抵抗を続けましたが、エルルの月の第8日に、ローマ軍は「上市」を猛攻撃し、火を放ち、住民を殺戮しました。(ヨセフス・フラビウスのユダヤ戦記より)

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この遺跡は、1970年に上市で発見されました。入口の広間と他の4つの部屋と調理室および祭儀用浴室(ミクヴェ)から成っています。各部屋から出た多数のコインは、殆どが第一次ユダヤ・ローマ戦争時代のもので、「シオンの贖いの第2年(AD67年)」、「第3年(AD68年)」、「第4年(AD69年)」などの日付がついていたそうです。

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真ん中の奥に「ウォール博物館」の大邸宅にもあった回転式の石のテーブルが見えます。この家もかなり裕福な人が住んでいたようです。

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部屋の壁際から、ローマ軍が打ち込んだと思われる鉄製の槍が発見されました。

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また、小さい調理室の壁にもたれた若い婦人の腕の骨が発見されました。これは、家が炎に包まれたとき、彼女が部屋から逃げ遅れたことを物語っているとのこと。

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三つの主な部屋から、さまざまな家具や器物が出土しました。水差型土器や平たいお皿、左には製粉用石臼が見えます。

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貯蔵用の壷でしょうか。

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調理用の土器や変わった形の土器。

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メジャーコップとか、乳鉢とか、発掘されたさまざまな土器が展示されています。この家には有名な祭司が住んでいたそうですが、随分裕福だったものと思われます。

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出土した丸い錘(おもり)石の一つにその所有者を示すアラム語の碑文が刻まれていました。それは、「バル・カトロス」と書かれていて、この人は、タルムード(口伝律法を書き記したもの)に記されている4人の有名な高級祭司家の一人であり、つまり、この家は、この歴史上有名な祭司の家だったということなのだそうです。それで、この家は「カトロスの家」とも呼ばれています。

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この博物館では、短い映画も上映されていました。その内容は、豪華な家でご馳走を食べたり酒を飲んだりしている家族がいて、その主人がローマ軍はここまで攻めてこないから大丈夫だよ、と言ってる場面があり、その後、ローマ軍が攻めてきて町が焼かれ、この家も焼け落ちてしまうというものです。家族連れのユダヤ人も見学に来ていましたが、この施設もユダヤの歴史の教訓を教える場になっているようです。

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