Nazareth No.2 (ナザレ その2)
訪問日:Feb 20, 2013
メギドからまたバスに乗ってナザレに向かいます。ナザレには私達は2日前に個人旅行としてレンタカーで来たのですが、前述のようにいろいろトラブルがあってじっくり見物はできませんでした。しかし、このツアーでは、ナザレ市内の見学は予定になく、町外れにある『突き落としの崖』に登りました。
2日前は、雨が降ったり晴れたり、変わりやすい天気だったのですが、この日は素晴らしく晴れていて、美しいイズレエル平原の広がりがよく見えました。手前にある岩が、イエス様が突き落とされそうになった崖と言われている所で、高所恐怖症の私にはなかなか近づけません。
3名の勇気のあるツアーメンバーが、崖の上に立って、当時の様子を実演してくれました。
聖書には、『 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。』(ルカ 4:28-30)とあります。
なぜ、ナザレの人々はイエス・キリストを崖から落とそうとしたのでしょうか。イエス様は、郷里のナザレに来て会堂(シナゴーグ)で説教をしましたが、神に選ばれたユダヤ人ではなく異邦人が救われたという話をしたため、ユダヤ人であり、イエスを子供時代から知っている人たちが怒ってイエスを殺そうとしたのでした。
タボル山も綺麗に見えました。タボル山は士師記4章に出てきます。
”あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」 “(士師記4:6-7)
年代は、はっきりしませんが紀元前12世紀頃でしょうか、イスラエルの民がカナンの王ヤビンに支配されていた頃のことで、イスラエルの女預言者デボラが将軍バラクに命じて一万人の兵をこのタボル山に登らせ、その後、イスラエルの神の力を得てカナン軍をキション川で打ち破りました。この時からイスラエルがイズレエル平原で優勢になり始めたとのことですが、メギドはソロモン王の頃までカナン人の支配下だったようです。
これはモレの山です。士師記7章にでてきます。
“それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。”(士師記7:1)
女性の士師デボラの勝利後40年間は穏やかでしたが、その後、イスラエルは再び主の目の前で悪を行なったために、ミデアン人に支配されることになりましたが、その時登場するのがギデオンです。ギデオンは勇者ではなく普通の人だったとのことですが、イスラエルの神、主に命ぜられ、3万2千の兵の中から300人をえり分け、たった300人でモレの山を越え、北側にいた13万5千人のミデアン軍を打ち破りました。
また、北方にはナザレの町が見えます。真ん中に見える黒い三角屋根の建物が、イエスの母マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けた洞窟の上に建てられたと言われる『受胎告知教会(Basilica of the Annunciation)』で、Ave Mariaの頭文字”A”の形をとって三角屋根にしたとのことです。
当時のナザレは、この教会の場所あたりに150人くらいが住んでいる小さな集落だったようです。現在は、イスラエルのアラブ人の町としては最大で、”アラブ人の首都”とも言われていますが、そのうち、クリスチャンが30%、イスラムが70%だそうです。
今回のツアーでは、ナザレ市内見学の予定はなかったのですが、なんと、時間的余裕ができたので受胎告知教会も見学するということ になりました!!私達は、2日前にも来たのですが充分時間を取れなかったので、これはラッキーでした!本当に、神様の細かい気配りには驚くばかりです!!しかも、今回は、駐車場探しの必要はないし、どこを見学すべきか、どんな内容かは、恭仁子さんが全部ガイドしてくれますので本当に楽チンで、大感謝です!
以下は、恭仁子さんの説明も含めて。
カトリックでは、この『受胎告知教会』の下にある洞窟でイエスの母マリアが天使から受胎告知を受けたとされていますが、ギリシャ正教では町外れの井戸にマリアが水を汲みに来たときに天使ガブリエルから受胎告知があったとされ、その井戸の跡に聖ガブリエル教会というのを建てています。
この受胎告知教会は、キリスト教が公認された4世紀に最初のものが建てられ、その後イスラム支配の時に破壊され、十字軍が取り返したときに再建され、その 後、またイスラムのマムルーク朝に破壊され、20世紀の英国委任統治下になって再建され、1955~69にかけてフランシスコ会によって巨大な教会が完成 しました。中東で最大の教会と言われています。
教会には1階と2階に礼拝堂がありますが、1階の中央の地下部分に洞穴があり、祭壇が造られています。この洞穴で、マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けたと言うことです。この洞穴にマリアの家族が住んでいたとのことで、祭壇の右奥に、『マリアのキッチン』と言われる小さな洞穴を経て地上にでる階段が見えます。
十字軍時代に建てられた教会の柱や壁の上に新しい壁が建てられています。
2階には大きな礼拝堂があります。日曜日には、地元のクリスチャンで一杯になるとのこと。
ここが、大きな三角屋根の下にあたります。大きなパイプオルガンやステンドグラスがあり、豪華です。
三角屋根の部分の天井は、ゆりの花の花びらをイメージしたものとのこと。
この教会を建てるときには、世界中のカトリックの芸術家に、各国独特の聖母子像を依頼したそうです。日本から贈られた長谷川ルカの「華の聖母子」もここに飾られています。このマリアの袖には本物の真珠が飾られているとか。
地元ナザレからの像もありましたが、まだ誕生前の様子なのでしょうか、マリア様だけです。
ここから先は、2日前に個人で行ったときには分かりませんでした。やはり、ガイドなしの旅行では大切なものを見逃す場合が多いと思います。
この教会の地下では、2000年前に生活していた住居跡が発見されました。考古学的な研究に熱心なフランシスコ会の修道僧によって発掘されたものとのことです。マリアやヨセフの家族が住んでいたものかどうか不明ですが、飼葉桶とかオリーブ絞りの道具などがあり、当時の庶民の生活の様子を知ることが出来ます。
教会の地下ですが、2000年前はここが地面でした。
その下には、さらに洞穴が見えます。
受胎告知教会を出ると、続いて、聖ヨセフ教会があります。現在の教会は1914年に建てられたものですが、これも、その下に十字軍時代の教会の遺跡、またその下にビザンチン時代に建てられた教会の遺跡があって、一番下に住居跡の洞穴があります。
ビザンチン時代の床面でしょうか。
ビザンチン時代、4世紀頃の沐浴場(洗礼槽)です。床面はモザイクになっています。
その横には、小さな会堂が作られています。
さらに地下の洞穴に続く階段があり、入り口は格子戸で閉じられています。この奥の広い洞穴にヨセフ一家が住んでいたそうです。
当時は貧富の差が激しく、裕福な人は、岩山から石を切り出して邸宅を作り、貧しい人は、石が切り出されてできた洞穴に住んでいたとのことです。
この床の下にあるのが、ヨセフが大工仕事をしていたところとか。大工仕事といっても、当時は木材は高価なのであまり使われず、ヨセフも石材を加工する大工だったそうです。
2つの教会を見て、この日の見学は終了です。名残惜しく、最後にナザレの町の写真を撮りました。正面の丘には迷路のような細く長い階段がありますが、それを上っていくと、2日前に泊まった『Rosary Sisters Guest House』にたどり着きます。あの時、シナゴーグ教会へ行こうと思って探しても見つかりませんでしたが、帰国後、BibleWalks.comを調べながらこの写真を見ていて分かりました。正面のアーチの向こう側に二つの四角い塔が建っていますが、それがGreek Cathoric Churchで、その地下に十字軍時代に建てられたSynagogue Churchがあるそうです。このSynagogue Churchは、NazarethにあったSynagogue(会堂)の上に建てられたとのことですから、ルカ4:16-30にでてくるイエス様が説教された会堂というのは、まさしくここになるわけです。次に来る機会があれば是非立ち寄ってみたいと思います。
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突き落としの崖
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