Tel Dan(テル・ダン)

訪問日:21 Feb 2013

旧約聖書に「ダンからベエル・シェバまで」という言葉がよくでてきますが、イスラエルの北から南までというときに使われています。テル・ダンは、イスラエル王国の最北端の町の丘状遺跡です。ここは、バニアスから3Kmほどの近距離にあり、バニアスと同じようにヘルモン山の雪解け水が豊かに流れる川があり、この水はガリラヤ湖に流れ込んで行きます。

DSC_1038_R

清流が勢いよく流れています。

やはり、ここも自然保護区(Nature Reserve)になっていて、川遊びやハイキングのできる綺麗な公園として整備されています。

 

Tel Dan Map_R説

公園の全体図です。

私達は、川沿いの散歩道を通って、カナン時代の門の跡に向かいましたが、この日は工事中で通行止めになっていました。それで、少し戻ってイスラエル王国時代の門に入り見学した後、北東の丘の上まで歩いて北王国のヤロブアム王が作った祭壇「高き所」を見学しました。

DSC_1040_R

川がたくさんあり、水が豊かです。

DSC_1086_R

途中に、水遊びができるような場所も用意されています。

DSC_1046_R

これが、イスラエル王国時代(ソロモン王の時代)に建てられた門です。この地は、元はライシュと呼ばれ、カナン人が住む町でしたが、ヨシュアの時代にダン族にはまだ土地が割り当てられていなかったので、この地を奪い取ってダン族のものとしました。

DSC_1047_R

城門は玄武岩を用いていますが、殆ど削られてなく、そのまま積み上げられているようです。

DSC_1048_R

この右側には、小さな「聖所」があり、石の柱が並んでいました。どのような神が礼拝されていたかは、はっきりしないようです。

DSC_1052c

城門の入り口に入ります。手前に見える遺構は「市場」の跡だそうです。

DSC_1050_R

入り口から入った所では、別のグループが集まって話を聞いていました。

DSC_1085_R

城門の再現図です。

Tel Dan _0001_R

これは、上から見た配置図(「聖書時代の考古学」A.Mazar著、杉本・牧野訳より)です。入り口から入った正面に小さな台座が描かれています。ここに王(裁き司)が座って、並んでいる民からのいろいろな訴えを裁いたということです。

DSC_1056_R

入り口から入ったところ。

DSC_1079_R

王(裁き司)が座った台座。台座のまわりに丸い石の台が4つありました(一つは割れています)が、下図のように、この上に柱が立っていて屋根があったと思われます。

DSC_1081_R

 

DSC_1059_R

門の中には、敷石が敷かれ、両側に幾つかの部屋がありました。

DSC_1060_R

門の中の部屋です。

DSC_1062_R

石の建造物の上には木が生えて、根が食い込んでいます。

DSC_1084_R

ここにも小さな「聖所」があり、石の柱が並んでいました。異教の神が礼拝されていたようです。

DSC_1064_R

一番北の端にヤロブアム一世が作った祭壇があります。

DSC_1068_R

ソロモン王が死んで、王国が分裂した後、ヤロブアムが北イスラエルの王となり、北王国の南の境界にベテル、北の境界にダンという2つの宗教中心地を建設しました。(第一列王記12:26-33)

”ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。”

つまり、エルサレムの神殿に行かなくても、近くで簡単ににせものの礼拝をできるようにしたと言うことで、明石牧師は、これを「コンビニ礼拝」と呼んでいます。主のおきてと命令に大きく反するこの礼拝様式は、神に忌み嫌われる罪となってヤロブアムは滅ぼされ、後代まで「ネバテの子ヤロブアムの罪」と呼ばれるようになりました。

この様子が絵で描かれていました。牛が焼かれる「犠牲の祭壇」は、上の写真では金属の枠で示されていますが、実際は石で出来ており、4隅に角がありました。

DSC_1066_R

下の図は、発掘の結果分かったものです。(「聖書時代の考古学」A.Mazar著、杉本・牧野訳より)

Tel Dan _0002_R

ダンの祭壇の遺跡は、聖書に書かれた建物で明確に考古学的に同定できる唯一のものだそうです。

DSC_1071_R

奥の階段を上ったところに、「高き所」の基壇がありました。

DSC_1073_R

この「高き所」の上に「金の雄牛」の像が置かれていたとのことです。

DSC_1074_R

DSC_1072_R

「高き所」の切石には、石の周りを磨いて中の部分を四角く浮かした飾りが施されています。これは、イスラエル王室の宮殿建築によく見られる技法だそうです。

DSC_1076_R

祭壇の横には、小さな部屋が幾つかあり、この部屋では、香がたかれていました。

これらの祭壇の石には、激しく焼かれた跡があり、おそらく、BC833年のアラムの王、ベン・ハダテ一世の征服によるものだろうとのことです。ダンの町はBC732年にアッシリアに征服され、破壊されました。

DSC_1087_R

この日も天気がよく、順調に見学ができました。いよいよ昼食です。

DSC_1089_R

鱒の養殖場のあるレストランに到着しました。

DSC_1090_R

中に入ります。

DSC_1095_R

大変美味な鱒でした。この後、ガイドの恭仁子さんのご配慮により、当初の予定にはなかったテル・ハツォルを見に行くことができるようになりました。イスラエルで最大のテル遺跡です。ラッキー! 感謝です!

[show_google_map width=660 height=660 lat=33.248208 lng=35.652686][/show_google_map]