Masada(マサダ)
訪問日: 24 Feb 2013
この日の最初の訪問地、マサダ国立公園に着きました。この高い断崖絶壁の上に古代の要塞があります。「マサダ」とは、アラム語で要塞の意。
はるか上の方に、ケーブルカーの山上駅があります。
マサダの数奇な歴史(Biblewalks.comを参考にして)
- BC1000年頃 ダビデがサウル王から逃れてこの丘に隠れていた可能性あり? サムエル記第一23:14 ” ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。・・・”
- BC2世紀頃 ハスモン家の大祭司ヨナタンがこの丘を要塞とした。
- BC24年 ヘロデ大王が、豪華な宮殿や見張塔、大きな収納庫、貯水システムなどを建築し、要塞を堅固なものにした。
- BC4年 ヘロデ大王が死ぬと、ローマ軍が駐屯した。
- 66年 急進派であるシカリ派(シカリという名は、彼らが持ち歩いていた曲がったナイフ(ダガー)を持つもの、つまり、殺し屋という意味)がローマ軍に反乱し、マサダを征服した。その後、リーダーのメナヘムが暗殺された後、エルサレムから逃げてきたエレアザル・ベン・ヤイールが反乱軍のリーダーとなった。
- 67年 シカリ派がエン・ゲディの集落を襲って、住民を殺し、食料を奪ってきて倉庫に蓄えたという話もある。
- 70年 エルサレムの神殿がローマ軍に破壊されると、生き残った反乱軍はマサダに逃げてきて、エレアザルのもとに合流し、女性・子供も含めた960人がマサダの要塞に3年間立てこもり、ローマ軍と最後まで戦った。
- 73年 ローマ軍は、要塞のまわりに8つの駐屯地を作って総勢1万人で取り囲み、ユダヤ人の捕虜を使って丘の西側に土塁を築き、ついに攻め上ってきた。960人のユダヤ人は、自決を決心したが、ユダヤの律法に反する自殺を避け、10人を選んで残りを殺させ、更に一人をくじで選んで残りを殺させ、その一人は地面に剣を立ててその上に倒れて死んだ。すべてのものに火をつけたが、食料がなくなって死ぬのではないことを示すため、食糧倉庫は焼かなかった。
下図は、マサダの全体図です。マサダの要塞は、死海の水面から400mの険しい山の上を平たく切り取ったような台地にあり、南北600m、東西300m、周囲1400mのひし形をしています。
大きなケーブルカーに乗って登ります。
遠くに見えるのは死海。丘のふもとには、紀元73年に攻めてきて取り囲んだローマ軍の駐屯地跡が見えます。
拡大して見ると、駐屯地の周囲は、しっかりと囲まれています。手前の横長の直線の壁は、マサダから人が逃げ出すのを防ぐためのもの。
歩いて登る人も何人かいました。この道は、Snake Path(蛇の道)と呼ばれており、古代の人々も通った道と思われます。
ケーブルカーの終点を登ると、丘の上は広い平地になっています。北の一角を見たところ。
まず、北側に集まっているヘロデ大王時代に建てられた建物群に向かいます。左手に見張塔が見えます。
その手前に、石切り場がありました。マサダの建物の石は、こういうところで切り出されたとのこと。
最初に入ったのは、司令官の住居跡。
マサダの北側にあるヘロデ大王が建てた建物群を再現した模型です。恭仁子さんが指差しているのが、現在地で、指令本部の正面玄関あたりです。外部からの荷物は、東側の坂道を登ってここへ運ばれた後、ここで降ろされてチェックされ、左側にたくさん並んだ細長い倉庫に入れられました。
こちらから見ると、北の宮殿の3つのテラスが良く分かります。一番下のテラスには、ローマ式のプライベート・バスがありました。
司令官の住居にある立派な柱のある通路です。
司令官の家の復元図。
司令官の家の壁には、しっくいが塗ってあり、その上にフレスコ画が描かれていました。あちこち部分的に残っていますが、2000年前のものとは思えないほど、彩やかです。
次は、倉庫群の間の通路を抜けて、大浴場に向かいます。
ローマ式大浴場の入口です。
内部構造を示す模型がありました。この浴場は、ヘロデ大王の社交の場として、ローマ式の浴場の要素を忠実に取り入れたものだそうです。心臓を傷めないように、準備体操をするための中庭もありました。沐浴用と思われるプールもありますが、これは、ユダヤの反乱軍が占拠してから増設されたものではないかといわれています。
大浴場の見取り図です。
上の図の中庭にあたるところ。床には、幾何学的な模様のモザイクが残っています。
大浴場の中庭から浴室を見た様子を描いた想像画。
着替室に入りましたが、美しいフレスコ画を汚すように不細工な浴槽がありました。これは、反乱軍が占拠した後に、美的感覚を気にせずに作ったものであろうとのこと。
コールド・ルーム。階段がついています。
ウォーム・ルーム。
ホット・ルーム。床がたくさんの短い柱で支えられています。また、壁には穴のあいた陶器のパイプが埋め込まれており、床下の空間と壁のパイプの中に熱風を通すことにより部屋を熱くし、この床に水をまいて蒸気風呂にするわけです。
ホット・ルームのこちらの穴にかまどがあり、熱風が吹き込まれたと思われます。
大浴場の外から見たかまどの様子。
大浴場を出て、北の宮殿に向かいます。
ここからは、倉庫群の跡が良く見え、本当に大きな倉庫があったことが分かります。倉庫には、食料、武器、薬品、など、当初は、主に王侯貴族のための物品が納められていました。
北の宮殿の上のテラスは、展望台になっています。右上に死海が見え、正面の上の方に見えるのはエン・ゲディの山々です。
ここにも北の宮殿の模型がありました。これから、山道や階段を降りて、下のテラスまで行きます。
このような急な坂道を降りていきます。下のテラスまで降りると丘の半分以上下ったことになるとか。
上のテラスから中段のテラスを見たところ。
中段のテラスです。建物はなくなっています。
下のテラスに降りました。ここには、柱がたくさん残っていて、壁際には柱が埋め込まれたように見える彫り物がしてありました。ここには、ローマ式のプライベート・バスがあったとのこと。ヘロデ大王が、「絶景かな!絶景かな!」と言いながら楽しんだものと思われます。
下のテラスから中段のテラスと上段のテラスを見たところです。また、これを登って戻らないといけません。
これは、上のテラスの近くにあるGuard Room(守衛室)。西側からの入口にあり、武器や食糧などの重要物資が保管されている倉庫への出入りを取り締まっていたとのこと。
これは、宮殿の守衛たちが座っていたベンチだそうです。背もたれにあたる壁面にはしっくいが塗られていますが、それが大理石に見えるように模様がつけられ、仕上げられています。歴史家のヨセフスもこれを見て大理石と勘違いし驚いたそうです。
マサダで生活するのに最も重要なものは、水。丘や崖のあちこちに水を溜める大きな洞穴が作られています。雨は一年に一回くらいしか降らないので、すべての雨をこれらの貯水用の洞穴に導いて蓄えたとのこと。
年に一回程度の雨をすべて溜め込むために、丘の斜面には、2本の導水路が作られています。導水路のところどころに貯水用の穴が合計12個掘られていて、全部で4000㎥蓄えることができるそうです。溜まった水は、ロバなどの動物を使って丘の上に運ばれ、北にある水の門、または、東にある蛇の道の門から運び込まれました。
見学通路の左側に導水路が見えました。流れた先に穴があって、崖の斜面の中に作られた貯水用洞穴に入っていくようになっています。それらの穴の中はしっくいで水が漏れないようにしてあり、沈殿物が底に沈むようになっています。
ユダヤ教のシナゴーグの跡もありました。ヘロデ大王の時代に恐らく馬屋として建てられたものが、反乱軍が占拠した後にシナゴーグに作り変えられ、共同体のミーティングとかトーラーの読み上げのために使われました。
シナゴーグの想像図です。ここの床下から「・・・・ひからびた骨に、・・・肉が付き、・・・主の霊が入って生き返る・・・・」と書かれたエゼキエル書37章を含む聖書の断片が発見されたそうです。
私達は、座って明石牧師のお話を聞きました。
これは、鳩を飼うための巣とのこと。
鳩の肉は食用に、糞は肥料として使われました。
マサダの要塞を取り囲んでいたローマ軍は、なかなか反乱軍が投降してこないのに痺れを切らし、西側の斜面に長い坂道を造り、そこを登って攻めてきました。
当時の戦いの想像図です。ユダヤの反乱軍は、激しく抵抗して一夜もちこたえましたが、960人のユダヤ人は、捕えられて他国の神を拝まされる前に自決しようということになり、ユダヤの律法に反する自殺を避けるため、まず一家の主が家族を殺し、10人のリーダーが残りを殺し、更に一人をくじで選んで9人を殺させ、その一人は地面に剣を立ててその上に倒れて死にました。すべてのものに火をつけたが、食料がなくなって死ぬのではないことを示すため、食糧倉庫は焼かなかったということです。
ここが、ローマ軍が攻め込んできた場所です。反撃を警戒しながら攻め込んできたローマ軍は、多くの人が死を恐れずに整然と死んでいった気高い姿を見て敬意を表したということです。
ローマ軍が投石器で投げ込んだ大きな石ころが積み上げてありました。
その後の歴史
- その後しばらくは、ローマ軍が駐屯した。
- 5世紀頃~AD7世紀頃 ビザンチン時代に修道院が建てられたが、アラブ支配になって廃墟となって埋もれ、世の中から忘れ去られた。
- 19世紀のある時、2人の探検好きなアメリカ人がここを通りがかった時、ユダヤ戦記にでてくるマサダの要塞に似ていると思い、考古学者に発掘を依頼、掘ってみたらマサダの要塞らしきものが出てきた。
- 1963~65年 ヘブライ大学のイガエル・ヤディン教授のもとで大々的な学術的発掘が行われた。
- 1971年 ケーブルカー完成。
- 2001年 UNESCO世界遺産に登録された。
現在は、ここで、イスラエル国防軍の入隊宣誓式が行われ、新兵は宣誓の後、銃と聖書を受け取って国家「ハティクバ(希望)」を合唱するということです。
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