Via Dolorosa(ヴィア・ドロローサ)

訪問日:26 Feb 2013

聖アンナ教会から出て再びライオン門から入った道を旧市街の中心方向に歩きます。この先あたりからVia Dolorosa(ヴィア・ドロローサ)”悲しみの道”が始まります。

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この道は、イエス・キリストがピラトの官邸で十字架刑の宣告を受け、十字架を背負って城外のゴルゴダの丘まで歩かれた道とされていて、現在は14のス テーションがあり、それぞれに番号のついたマークが貼られています。この道は13世紀の十字軍時代以降にカトリックのフランシスコ会によって巡礼者のため に設定されたもので、時代の状況に応じて変化しており、考古学的根拠は全くないとのことです。しかし、現在では、聖地旅行の目玉になっており、毎日世界中 から多くの旅行者がその道を歩いてイエス・キリストの受難を偲んでいます。

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第1ステーションはイエスが十字架刑の有罪判決を受けたところです。

” さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。(ヨハネ18:28)”

その場所は、ピラトの官邸があったとされるアントニア要塞とされていますが、最近の説では、ピラトの官邸は、アントニア要塞ではなく、ヤッフォ門近くの現在の城砦(ダビデの塔)にあったヘロデの宮殿の中にあったとも言われています。アントニア要塞の跡には、現在は、イスラム教のエル・オマリヤ・スクールが建てられており、校内へは入れないので第2ステーションのイエスが十字架を背負わされたところから見学が始まりました。

” そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。(ヨハネ19:1-3)

下の写真は、「鞭打ちの教会(The Church of Flagelation)」です。

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すぐ隣に、「宣告の教会(The Church of Condemnation)」があります。

” そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。” (ヨハネ19:13)

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会堂内には、イエスが宣告される場面を描いた絵がありました。

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再び道に出ると、立派なアーチが見えてきました。これは、「エッケ・ホモ・アーチ」と呼ばれ、ノートル・ダム・ド・シオン女子修道院の建物から道の向かいのアラブ人の家に向かって突き出ています。この修道院の建物は、通称「エッケ・ホモ教会」と呼ばれており、ここも、ピラトの官邸跡とされてきました。「エッケ・ホモ」というのは、ラテン語で、「この人を見よ」という意味で、ヨハネ19:5”それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。” に由来しています。

しかし実際は、ローマのハドリアヌス帝が第二次ユダヤ反乱を鎮定した後にエルサレムを再建しましたが、その時に建てた凱旋門で、3重のアーチからなる壮大な門だったとのことです。

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この修道院の中には発掘されたローマ時代の敷石の床が保存されています。これは、アントニア要塞にあったもので、イエスがピラトの裁判を受けたところとされています。しかし、最近では、この敷石はアントニア要塞にあったものではなく、その百年ほど後のハドリアヌス帝の時代のものだとのことです。(関谷定夫著「聖都エルサレム5000年の歴史」より) いずれにしろ、当時の裁判はこのような雰囲気の敷石のあるところで行われたようです。

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さらに発掘によって、それらの敷石の下から、巨大な水槽が発見されました。それは、ヨセフスのユダヤ戦記にも書かれているストルスィオン・プール(「すずめの池」の意)ということです。これは、ヘロデ大王によって作られた長さ52m、幅12m、深さ10mの巨大な給水施設で、当初は露天の水槽でしたが、後に、ハドリアヌス帝が改築してアーチ型天井で覆って保護し、また、プールの中央に仕切り壁を造って二つに分断し、その上を美しい敷石で被ったのがこの上にあるガバタと呼ばれる敷石の床とのことです。

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さらに道を西に進んで、第3ステーションに向かいます。

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次の道を左に(南に)曲がる角に第3ステーションがありました。ここは、中世からの伝承によると、イエスが十字架の重みで最初につまづかれたところだということで、アルメニア正教の会堂があり、入口の上に壁画が描かれています。

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そこから南に進みます。お土産屋さんなどの店が増えてきます。

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第4ステーションです。これも中世からの伝承ですが、母マリアが十字架を負って歩くイエスを見たところとされています。

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道の両側にどんどんお店が増えてきて、歩く人も多くなってきました。

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右に曲がる道の角に第5ステーションがありました。ここはクレネ人シモンがイエスに代わって十字架を負ったところとされています。

”そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。” (マタイ27:32)

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そこを右に曲がって西へ進むと上りの坂道になっていて石の階段が続きます。

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途中の左側に第6ステーションがあります。ここは、伝承によれば、ベロニカという女性がイエスの顔を布で拭ったとされるところで、ギリシャ正教の小さな聖堂があります。

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更に階段を登って西に向かいました。

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第7ステーションです。ここも伝承によりますが、イエスが2度目に倒れたとされるところです。カトリックのサンフランシスコ会の小さな聖堂があります。ここに、当時の城壁があったとのことで、ここから西は城壁外になるそうです。

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混雑した商店街を通って、更に西に進みます。

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両側にひさしのある商店街を登っていくと、左側の壁に第8ステーションの丸い看板が見えてきました。

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第8ステーションは、エルサレムの娘たちに泣くなといわれたところとのことです。

”大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。” (ルカ23:27-28)

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更に、混雑した商店街を通り抜けました。

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商店街を通り抜けて左側を見上げると、ゴルゴダの丘があった聖墳墓教会の大きなドーム屋根が見えました。イエス様は、十字架を負って苦しみながら、ここからゴルゴダの丘を見上げたのでしょうか。

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ここから建物のトンネルに入りました。近道のようです。

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暗いトンネルを抜けたところに第9ステーションが見えました。

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第9ステーションは、伝承によれば、イエスが3度目に倒れたところだということで、聖墳墓教会のコプト教会の入口にあたります。

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ここからエチオピア教会の中を通って聖墳墓教会へ行きましたが、第10ステーションから第14ステーションまでは、聖墳墓教会の中にありますので、次の聖墳墓教会のところに書くことにします。

最初にも書きましたが、現在のヴィア・ドロローサは、カトリックによって13世紀以降に巡礼のために設定されたもので、考古学的には根拠がないそうです。最近の説では、ピラトはアントニア要塞ではなく、町の反対側にあったヘロデの宮殿に滞在していたということで、「バイブル・ワールド 地図でめぐる聖書」(ニック・ペイジ著)には、下図のような説明がありました。ご参考のために添付しておきます。

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