City of David(ダビデの町)
訪問日: Wed, 27 Feb & Sun, 3 Mar 2013
エルサレムの旧市街で昼食を食べた後、「ダビデの町」へ行きました。ここは、エルサレムの起源とも言える場所で、中期青銅器時代のカナン人(エブス人)時代や、ダビデ王国、ユダ王国時代の遺跡、ギホンの泉と導水トンネル、などが発見され、現在は考古学公園となっているところです。ビジターセンターの入口には、少年ダビデの愛した竪琴のオブジェが飾られています。教育のためか、多くの子供達が団体で見学に来ていました。
私達夫婦は、ツアー終了後も数日間エルサレムに泊まり、もう一度ここを見に来ました。
入口を入ってすぐ東の急な崖になっているところに、石の階段状の遺跡がありました。ダビデは、エルサレムを占領後、この場所に王宮を構えて住んでいたと思われますが、その建物の基礎を支えていたと考えられる階段式の建造物です。この建造物の発掘は、1961年と67年のキャスリーン・ケニヨン女史に続き、1978年から85年に掛けてイガル・シロ教授によってなされました。シロ教授は、ここをG地区と名付けました。ここに王宮があったとすれば、サムエル記に書かれているように、フェニキアの王ヒラムが建てたものと思われます。
”ツロの王ヒラムは、ダビデのもとに使者を送り、杉材、大工、石工を送った。彼らはダビデのために王宮を建てた。”(第二サムエル記5:11)
『王宮地区(G地区)
”...町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。”(エレミア30:18)
古代エルサレムの住民はこの斜面に住居を建てた。ここで発掘された初期の建造物は有名な石の階段式建造物の一部で、ダビデの宮殿か、あるいは、それに先立つカナン人の要塞を支えるものであった。第一神殿時代の初期には、この階段式構造物の上に、堂々とした住居と公文書館が建てられた。住居が豪華な造りであることと、見つかった工芸品の特徴から、この家の住人は、王宮に仕える高級役人であったと思われる。この王宮地区は、紀元前586年にバビロニアが攻めてきてエルサレムを破壊した時に焼かれた。その後、エルサレムに帰還した人々によって、城壁と共に第二神殿が再建されたが、市の外側にあったこれらの家は、ずっとそのままに残された。』
発掘当時の興味深い写真が、「聖書の世界の考古学(A.マザール著)」に載っていました。
階段式構造物の説明です。
『(第2サムエル記5:7) ”しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である。”
ここで発掘された印象的な石の階段式建造物は、有名な傭壁の一部であるが、その建築年代については学者の間で意見が分かれている。ある学者(イガル・シロー教授など)は、BC13世紀頃に建てられたエブス人の「シオンの要害」ではないかと言い、また、他の学者は、最近この丘の上で一部が発掘されたダビデの王宮を支える傭壁だったのではないか、と言っている。』
ここでの見どころは、階段式建造物と、その斜面上に建てられた王宮役人の家なのですが、よく分からずに写真を撮ったので、肝心のところが写っていませんでした。下の写真は、アヒエルの家の左端の部分です。右端に室内の柱が2本立っているのが見えます。
下の写真はアヒエルの家の床下から右側を臨むところ。もっと上を含む全体を撮れば良かったのに。
アヒエルの家の説明です。
『アヒエルという名前は、この家の遺物の中から発見された陶器片(オストラカ)に書かれていた。アヒエルの家はイスラエル時代の典型的な4部屋式住居で、3つの細長い部屋が4番目の部屋に直交しているスタイルである。屋根の梁は柱で支えられていたが、その一部が残っている。恐らく2階建てであった。建物の右端の部屋では、石灰石製のトイレが見つかった。(その傍らには汚物を流す水を入れたと思われる水瓶も見つかったとのこと)この家の住人がハイレベルの生活をしていたことが伺われる。』
これらの家は、ダビデ時代のものではなくて、ずっと後のユダ王国時代のもののようです。
下の写真は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」に載っていた写真です。随分立派な水洗トイレですね。
「燃えた部屋」と「押型印章の家」
『 ”主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。”(第二列王記25:9)
この住居地区は、BC586年、他のエルサレムの家々と共にバビロニア軍によって破壊され、燃やされ、家々の床は厚い灰で覆われ、イガル・シロ教授は、部屋に散乱した瓦礫の下にバビロニア軍やイスラエル軍の矢尻とか、焼け焦げた木製家具の残骸を見つけ出した。家具の木はシリアから輸入されたもので、この家の住人が高い地位にあったことを物語っている。この発掘場所の一番下には「押型印章(ブラエ)の家」と呼ばれる公文書保管庫の遺跡が発見された。火事のため巻物や書物はすべて消失してしまったが、羊皮紙やパピルスで作られた書物をシールし、その上に押印された粘土の小片(ブラエ)は、焼かれて硬くなった状態で残っていた。驚くべきことに、ブラエの幾つかに書かれた人名は、聖書に出てくるものと一致していた。例えば、「シャファンの子ゲマルヤ」というのは、エルサレム陥落より18年前のユダの王エホヤキムに仕えていた高官で書記であった人物である。』
”そのとき、バルクは、主の宮の、書記シャファンの子ゲマルヤの部屋で、・・その部屋は主の宮の新しい門の入口にある上の庭にあった。・・すべての民に聞こえるように、その書物からエレミヤのことばを読んだ。”(エレミヤ書36:10)
説明看板はたくさん撮りましたが、その後ろにある遺蹟の写真を撮っていませんでした.....残念!(>_<);
上記の住居跡は凄いものではありますが、ダビデ王とは直接関係ないようです。まだまだ現在発掘中ですが、ダビデ王時代の王宮跡などがそのうち発見されることを期待します。
この下のギホンの泉に降りる途中に、ダビデ王時代のエルサレムの想像図が展示されていました。右側の谷がケデロンの谷、左側の谷がテロピオンの谷で、その間の丘になっているのがダビデの築いた要塞の町です。当時のエルサレムは、ダビデ王国の首都となりましたが、6ヘクタールほどのもので、現在の小さな村程度の規模のものだったようで す。ダビデ王の住んでいた王宮は高いところにあったので、王宮(神殿の少し下にある大きく高い建物)の屋上を歩いて町中を見渡すことができました。(下の図は、一番上に神殿が見えるので、ソロモン時代の町のようです。)
上の図で、右側に突き出た4つの塔に囲まれたところが、ギホンの泉があるところです。また、城内の左下に小さくシロアムの池が見えます。
ダビデは、エブス人の領土になっていたこの地を攻め取り、要塞化するとともに神の箱を安置して祭壇を築きました。その準備としてエブス人アラウナから「穀物の麦打ち場」を購入しました。
”アラウナは言った。「なぜ、王さまは、このしもべのところにおいでになるのですか。」そこでダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようになるためです。」”(第2サムエル記24:21)
下の写真は、現代の写真です。ケデロンの谷は同じですが、テロピオンの谷は埋められて、道路になったり家が建てられたりしています。ダビデの町の上には、ソロモン王が築いた神殿の丘があります。また、左下のイスラム風の塔が建っているあたりがシロアムの池です。
私達は、ギホンの泉を見るために降っていきました。ギホンの泉は、当時のエルサレムの安定した水源でした。ここは入口で、ウォレンの竪坑も見に行きます。
ウォレンの竪坑の説明です。
”ウォレンの竪坑は、1867年に英国のチャールズ・ウォレン中尉によって発見された古代の給水施設であり、彼の名にちなんで名付けられた。この谷(ケデロンの谷)を源とするギホンの泉は、ここから地下トンネルを通って行く事が出来る。この給水施設は岩をくりぬいた複雑なトンネルからなり、平時はもちろんのこと、戦争で敵に包囲された時にも安全確実に水を供給できるように作られた。エルサレム唯一の給水源であったギホンの泉は、城壁の外側にあったので、要塞化するときには特別な注意を払って岩をくりぬいた地下トンネルを作り、泉からの水を安全に引き入れることが出来るようにした。・・・・・”
このあたりから出土された土器なども展示されていました。BC7~8世紀頃(第一神殿時代)に使われた水瓶です。
上に見えるのは陶器で作られたランプ台でBC8世紀頃のもの。下にあるのは、BC10世紀から8世紀頃に別の場所で石削りに使われた鉄の斧と鉄のノミです。
暗いトンネルを降りていきます。岩盤をくりぬいた41mのトンネルは、最初は急な階段で始まり、次にほぼ水平な部分が続き、やがて横坑と竪坑が続きます。竪坑の先まで水汲みに行くにはこの暗く長いトンネルを通らなければならなかったのですが、エルサレムの女性は毎日数回はこの道を往復したそうです。壁のあちこちにはすすけた窪みが今も残っていますが、これはトンネルを照らす石油ランプが置かれた跡とのことです。(「図説聖書の大地(ロバータ・L・ハリス著)」より)
「図説聖書の大地(ロバータ・L・ハリス著)」に載っていた地下トンネルの構造図です。硬い岩盤の中をよくもこんな複雑なものを掘ったものです。
傾斜トンネルを降ってウォレンの竪坑に向かいます。
ウォレンの竪坑の上部が見えました。この穴の下にギホンの泉からの水が流れています。最近の研究では、この竪坑はカルスト地に水の浸食によって自然にできた穴だそうです。ヨアブが上ってエブス人の町に入り込んだのがこの穴なのかどうか、いろいろな説があるようです。
そこから発掘中の現場を通り抜けて降りていきました。ダビデの町は、現在もあちこちで大規模な発掘作業が進行中です。
発掘現場に説明がありました。
上の説明文によれば、
(A)この下にギホンの泉がある。
(B)約3800年前(中期青銅器時代)にカナン人の住民がこの泉を取り巻く巨大な塔を建てた。
(C)泉の水は岩を削って掘られたトンネルを通り、大きな貯水池に流れていた。
(d)その貯水池は、強固な要塞に取り囲まれていた。その要塞の遺蹟の一部は、あなたの前で行われているReich and Shukronによる発掘調査で姿を現した。
ダビデ王は、これらの強固な要塞に侵入し、エブス人の町を征服した。
” 王とその部下がエルサレムに来て、その地の住民エブス人のところに行ったとき、彼らはダビデに言った。「あなたはここに来ることはできない。めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」彼らは、ダビデがここに来ることができない、と考えていたからであった。”(第2サムエル記5:6)
Reich and Shukronというのは、2人のイスラエル人考古学者で、特にエルサレムの発掘に力を入れているようです。Wikipediaによれば、2004年に第2神殿時代のシロアムの池を発掘、また、2009年にはシロアムの池から神殿の丘に通ずる第二神殿時代の巡礼の道を発掘したとのことです。これらは、次の記事で紹介します。
いよいよシロアムの池に通ずるヒゼキヤトンネルの入口に来ました。上の注意書きには次のように書かれています。
- 懐中電灯と水に入る靴が必要です。ろうそくはダメ。
- 45分くらい、暗くて狭いトンネルを歩きます。
- トンネルは一方通行です。
- 5歳以下はダメ、妊婦もダメ、、、、、、、
私達は、当初はヒゼキヤトンネルを水に浸かって歩いてシロアムの池まで行く予定でしたが、まだ水が冷たいのと、水深も腰のところまでありそうだということで、あきらめて「カナン人のトンネル」というのを通ってシロアムの池に行くことになりました。
正面がヒゼキヤトンネルの入口、左がカナン人のトンネルです。左へ行きました。
カナン人のトンネルもとても狭いですが、水は流れていないので床は乾いています。大きな人は通れるのでしょうか?
出口が見えてきました。
ダビデの町の東側下にあるケデロンの谷に出ました。
崩れそうな古い城壁があります。殆ど加工してない原石が積まれています。
これらは、町を取り囲む城壁のようです。
上の説明文によれば、
『カナン人の時代(中期青銅器時代)のエルサレムの町は壁で囲まれていた。その東壁の一部がここで発掘された。これは大きな原石で建てられていて、しっかり岩盤に固定されている。BC8世紀頃、恐らくヒゼキヤ王によってアッシリアの包囲攻撃から守るためにこの壁が復元された。この新しい壁には小さな原石が使われた。
”それから、彼は奮い立って、くずれていた城壁を全部建て直し、さらに、やぐらを上に上げ、外側にもう一つの城壁を築き、ダビデの町ミロを強固にした。....”(第2歴代史32:5)
その後年が経つとともに町の住人はこの壁の外側に住居を建てはじめた。これらの住居の幾つかは発掘調査で発見された。』
さらに、その近くに『シロアム碑文』の説明がありました。
この碑文は、ヒゼキヤのトンネルの南端付近で発見されましたが、次のように書かれているそうです。
『これは貫通の物語である。(石工たちが)それぞれ自分の相手に向かって斧を(ふるい)、貫通まであと3キュビトになったところで、相手を呼ぶ声(が聞こえてきた)。右手に裂け目があったからである.....。そして貫通の日、石工たちは互いに斧を振るって岩を打ち貫き、相手と出会った。こうして水は泉から池までの1200キュビトを流れた。そして、石工たちの頭上の岩の厚みは100キュビトあった。』(「図説聖書の大地(ロバータ・L・ハリス著)」より)
岩盤の両側から掘り進んで、中央で劇的につながったという、驚くべき経緯が記されています。この碑文はイスタンブールの考古学博物館に保管されているということですが、今回の旅行の帰路でイスタンブールに寄って見に行った時には、その保管庫が工事中であいにく見ることが出来ませんでした。
最後に、前日にオリーブ山から見たダビデの町の写真を載せておきます。階段状構造物の様子が良く分かります。この上にダビデの王宮が建っていたとすると、さぞ見晴らしがよく、遠くからも良く見えたものと思われます。
以上、ダビデの町の記事を書くのに大変時間がかかってしまいましたが、調べれば調べるほど奥深いものがあります。また、聖書に出てくる内容を再認識させられます。ダビデの町をはじめ、エルサレムはどこを掘っても聖書考古学の宝庫ですね。
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