Tower of David : Museum of the History of Jerusalem (2 of 3) (ダビデの塔 : エルサレムの歴史博物館 中篇)
訪問日: Sun. 3 March, 2013
エルサレムの旧市街は世界のどこにもない独特の雰囲気があり、いろいろな時代のいろいろな宗教を反映した遺跡が山積しています。これらが何時どうして作られたのか、どういう人たちが住んできて現在に至るのか、聖書にはAD70年以降のことは書かれていません。
引き続き、エルサレム歴史博物館の展示物を見ながら、それ以降の歴史をまとめてみます。現代まで含めると大分長くなりますので、16世紀にオスマン帝国に占領される前までを中篇として記述しました。オスマン帝国以降は次の後編に書くことにします。
写真はこの博物館のものを載せていますが、説明は今まで何度もご紹介してきました「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」と、最近本屋で見つけた「聖都エルサレムの歴史・・人はこの地になにを求めたのか(笈川博一著、NHKラジオテキスト)」を参考にして整理してみました。
* ローマ時代のエルサレム(AD70-324)
AD66年にユダヤはローマの支配に反旗をひるがえして戦い、エルサレムのローマ駐屯軍を全滅させました。これが、ユダヤの第一次反乱です。しかし、AD70年には、ティトスの率いるローマ軍に包囲されエルサレムは徹底的に破壊されました。この時からローマ時代が始まります。
破壊された町も神殿も荒れ放題でしたが、AD117年ハドリアヌスがローマ皇帝になると、彼はエルサレムを「アエリア・カピトリーナ」という名称に変え、ローマ風の町への改造に取り掛かりました。「アエリア」というのは彼の家名から、「カピトリーナ」というのはローマの主神の名から取ったそうです。ユダヤ教や割礼を禁じ、違反者を死刑にしたりしたので、ユダヤ人は憤慨してバル・コホバの乱と呼ばれる第2次ユダヤ・ローマ戦争を起こしました。これは132年に始まり、バル・コホバをリーダーとする反乱軍はユダヤ全土を征圧して新通貨を発行して一旦は成功しましたが、4年目の135年にはハドリアヌス帝に鎮圧され、ユダヤ人は完全にエルサレムから追放されて離散の民(ディアスポラ)となりました。
ハドリアヌスは、神殿の丘やゴルゴダの丘にローマの神の神殿を建て、現在のダマスコ門のところに凱旋門と広場(プラザ)を作ってその中央にハドリアヌス帝の像を載せた大円柱を立てたそうです。また、カルドー(大通り)や商店街も作られてローマの植民市となり、移民が急増したそうです。展示資料はいろいろあったようですが、見学当時は知識がなく、写真を撮っていませんでした。残念!
* ビザンチン時代のエルサレム(AD324-614)
キリスト教を迫害してきたローマ帝国ですが、コンスタンチヌスが皇帝になると、彼は313年にミラノの勅令を発してキリスト教を公認し、326年には何とキリスト教に改宗してしまいました。これは、母ヘレナの感化によると言われています。首都をコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に移しましたが、コンスタンチノープルの以前の都市名がビザンチンだったことから、これ以後がビザンチン時代と呼ばれます。
コンスタンチヌス帝はキリスト教の偉大な支持者となり、ローマ帝国領内から異教の神殿を取り除き、母ヘレナにイスラエルの調査を依頼しました。その結果多くのイエス・キリスト由来の遺跡が発見され、聖墳墓教会やベツレヘムの聖誕教会など、数多くの教会が建築されました。AD395年のローマ帝国分裂後は東の部分は東ローマ帝国と呼ばれるようになりました。
この時代のエルサレムは、ユスティニアヌス帝(AD527-565)の時に頂点に達しました。彼は町の南に巨大なネア教会を建て、列柱のあるカルドーを南に延長して聖墳墓教会とネア教会とを結びました。カルドーの両側には商店街が並び、大勢の巡礼者で賑わったそうです。そのころの模型が展示されていました。現在のダマスコ門の内側に広場があり、二つのカルドーが延びています。神殿の丘は荒れたままで何もありません。
* ササン朝ペルシャがエルサレム占領(AD614-627)
7世紀になると東ローマ帝国はササン朝ペルシャの侵略を受けるようになり、アンテオケ、ダマスカスが陥落、AD614年ついにエルサレムも40日間の包囲ののち陥落し、殆どの教会や修道院が破壊され、多くの市民や修道僧(合わせて34,000人?)が虐殺されました。 ユダヤ人はペルシャ側についたのでエルサレムに戻ってきました。
* 東ローマ帝国がエルサレム再占領(AD627-638)
AD627年になると東ローマ帝国のヘラクリウス帝がペルシャ軍を撃退してエルサレムを再び占領し、ユダヤ人を町から追放しました。
* 初期イスラム時代のエルサレム(AD638-1099)
しかし、それもつかの間、10年後のAD636年にはアラビアに嵐のように巻き起こったムハンマド(モハメット AD570頃-632)のアラブ・イスラム遠征軍の侵略を受け、エルサレムは2年間の包囲ののちAD638年に陥落しました。
このときもユダヤ人はアラブ人に味方し、勝利者カリフ・オマルからパレスチナと聖都での居住権を回復しました。ただし、まもなく、ユダヤ人とキリスト教徒に対して差別法が設けられ、イスラム教徒と区別する種々の規定や制限が設けられました。しかし、カリフたちはユダヤ人とキリスト教徒に対して比較的寛容で、キリスト教の巡礼も許され、住民は人頭税を払うことにより保護民として信教の自由が保障されました。
イスラム教の聖地エルサレム
イスラム教はムハンマド(マホメット)によってAD610年頃に始められ、メッカとメディナを二大聖地としています。メッカはムハンマドの生地で神から啓示を受けたところ、メディナはムハンマドが大々的な布教活動の後亡くなったところです。ちなみに、イスラム教の神は、アブラハム、イシュマエルの神ですから、ユダヤ教の神ともキリスト教の神とも同じ神です。そして、イスラムの伝承によれば、「ある夜ムハンマドがメッカのカアバ神殿で眠っていると天使ジブリール(ガブリエル)が現れ、白い天馬に乗せられ、エルサレムの神殿まで飛び、さらに天まで昇った。そこで、アブラハム、モーゼ、イエス、アダム、ノア、ダビデ等と会った。」ということだそうです。
* ウマイヤ朝のエルサレム(AD661-750)
AD661年まではムハンマドの後継者が互選で選ばれてカリフ(最高権威者)となりましたが、AD661年からはウマイヤ家が世襲するようになり、首都はダマスカスに置かれました。これをウマイヤ朝といいます。
エルサレムを占領したウマイヤ朝のカリフたちは、ユダヤ教やキリスト教の聖地であるエルサレムに強い関心を持つようになり、第5代カリフのアブド・エル・マリクはAD691年に神殿の山に「岩のドーム」と呼ばれるモスクを建設し、エルサレムを第3の聖地としました。
このモスクは、エルサレムを占領した第2代カリフのオマル・イブン・エル・ハッターブの名をとって「オマルモスク」とも呼ばれます。その中には天に上ったという聖なる岩が保護されており、その表面には足跡が残っているとされています。この場所は、ユダヤ教の第一神殿のあったところですから、ユダヤ教ではアブラハムがイサクを捧げたモリヤの山とされています。
オマルモスクの11年後にはアル・アクサー・モスク が建てられました。「一番遠い」という意味で、ムハンマドの夜の旅にちなんでいるそうです。エルサレムは2つの巨大モスクで飾られ、イスラム教の聖地として重要性を高めていきました。
* アッバース朝(スンニ派)のエルサレム(AD750-909)
ダマスカスを首都としたウマイヤ朝は内乱で力をなくし、AD750年にバグダッドを首都とするアッバース朝(AD750-1258)に滅ばされました。エルサレムもアッバース朝に支配されることになり、それまでの寛容な政策は中止され、ユダヤ人にもキリスト教徒にも高額の税金が課され、ユダヤ人が神殿の山に入ることも禁止されました。
* ファーティマ朝(シーア派)のエルサレム(AD909-1099)
AD909年、ムハンマドの娘ファーティマの子孫と称するイスマイリ・カリフ・エル・エイムズは、エジプトを征服しカイロを首都とするファーティマ朝(AD909-1171)を創設しました。エルサレムもその支配下となりましたが、特に第6代カリフ・アル・ハーキム(AD996-1021)は教会とシナゴーグへの弾圧を強化しAD1009年には聖墳墓教会をはじめ多くの教会を破壊しました。しかし、1020年に彼は心を変え、それらの再建を認めました。キリスト教は圧迫を受けていたにもかかわらず、教会などの施設はずっとエルサレムに存続し続けました。
しかし、AD1033年に大地震が発生、多くの建物は壊れ国土は荒廃しエルサレムの要塞も破壊されました。翌年、カリフ・タヘルによって城壁は修復されました。
紀元7世紀から11世紀頃のイスラム世界の地図です。ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、と変遷していきました。
* セルジュク・トルコ(スンニ派)の侵入(AD1073-1098)
AD1073年にはセルジュク・トルコが侵入しエルサレムを占領、教会などの宗教施設を大規模に破壊しました。セルジュク・トルコはスンニ派なのでファーティマ朝のシーア派の祈りの朗唱を禁止したそうです。昔からシーア派とスンニ派は激しく対立していたようです。
* ファーティマ朝(シーア派)が再びエルサレムを支配(AD1098-1099)
1076年からセルジュクに対する反乱が起こり、1092年に再びファーティマ朝がエルサレムを支配しました。
十字軍時代のエルサレム(AD1099-1187)
AD1095年、時のローマ法王ウルバヌス2世(在位1088-1099)はフランスのクレルモンで教会会議を開き、「神が望む!」というスローガンのもとで十字軍が結成されました。直接の原因は、東ローマ帝国軍がセルジュク・トルコのイスラム軍に敗れ、小アジアを失ってカトリックの法王に救援を頼んだことが始まりだそうです。エルサレムがセルジュク・トルコに占領されたこともきっかけになったようです。
下の地図のように、第一次十字軍は1096年にフランスやドイツを出発し、コンスタンチノープルやアンテオケを経由して1099年にエルサレムに到着、5週間の包囲ののちファーティマ朝のエルサレムを占領しました。
十字軍は、ひとたび占領すると非キリスト教徒であるイスラム教徒やユダヤ人を無差別虐殺し、生き残った者を奴隷に売ったそうです。異教徒に寛容であったイスラム支配者に比べて残酷な仕打ちをしたということです。
そして、エルサレムをキリスト教の聖地とするために、聖墳墓教会や聖アンナ教会など、多くの教会や修道院を修復・建築しました。また、ダビデの塔を城砦として中央政庁を置き、「岩のドーム」の上に十字架を建てて「主の神殿」としました。
エルサレムはキリスト教テーマパークとなり、巡礼者で賑わったとのことです。多くの巡礼者がヨーロッパから来ましたが、その記録によれば、通りには両替商が軒を連ね、ハーブ通りというところでは、ありとあらゆる果物や野菜や香料が売られ、また、別の通りでは肉が料理されて巡礼客に売られていたとのことです。
また、次の絵に見られるように、エルサレムに来たフランク王国の人たちはフランス語を話し、ヨーロッパの貴族の生活規律や習慣に沿った生活をしました。12世紀の芸術や文化は西洋と東洋のブレンドされたものとなり、聖墳墓教会の写字室では熱心に文書のコピー作業が行われました。
当時のエルサレムの模型です。城壁は現在に近い形をしています。神殿の丘にはテンプル騎士団が駐屯し、アル・アクサー・モスクは「ソロモンの神殿」と呼ばれ、騎士団の司令部として使われました。
第一次十字軍はなんとか成功しましたが、その後に組織された数次にわたる十字軍はほとんど失敗したそうです。
* アイユーブ朝時代のエルサレム(AD1187-1229)
イスラム世界は大きく分裂していて力を失っていましたが、次第に力を盛り返し、サラーフ・ディーン(サラディン)(AD1137-1193)という宰相が現れました。彼は、イラクのティクリート出身のクルド人ですが、主君の命でイラクからエジプトに送られ、そこでファーティマ朝を乗っ取って父の名をとったアイユーブ朝を打ち立てました。
それからは破竹の勢いで攻め上り、十字軍との激しい戦いの後1187年にティベリアの西の「ハッティーンの角」と呼ばれる丘で十字軍を殲滅させました。そして、2か月後にエルサレムを陥落、88年続いた十字軍の支配は終わりました。
サラディンは、入城に際しては一切の略奪を禁止し、それまでの住民や十字軍の兵士も身代金を払えば安全に退去させるなど、大変寛容な人物だったため、西洋でも名声を博しています。下の絵の中央に座っているのがサラディンで右側にいるのが身代金を払って退去する十字軍兵士たちです。
彼は岩のドームの上の十字架を取り除き、アル・アクサー・モスクなどのモスクをイスラムのモスクに戻しました。また、十字軍時代に禁止されていたユダヤ人の定住を許可しました。
1192年には、第3回十字軍を指揮するリチャード獅子心王との間で休戦協定を結び、キリスト教徒の巡礼を許しました。十字軍はアッコを奪還しましたが、エルサレムはイスラムの支配下にありました。
1219年のアイユーブ朝の支配者は十字軍がエルサレムに再攻撃してくるのを恐れ、その時には焦土作戦ができるようにと城壁を取り壊してしまいました。無城壁の状態はオスマン帝国時代まで続きました。
* 神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世がエルサレム支配(AD1229-1244)
1221年、アイユーブ朝スルタン(意味は君主)のエル・マリク・エル・カミールとドイ ツ皇帝フリードリッヒ2世の間で協定が成立し、神殿の山を除くエルサレムがキリスト教徒に再び渡されることになりました。そして、1229年フリードリッヒ2世が聖墳墓教会で戴冠式を行ってエルサレム王に即位しました。しかし、城壁の修復は許されませんでした。この間、イスラム教徒とキリスト教徒は平和共存しましたが、ユダヤ人は追放されました。
* ホラズムというイスラム勢力がエルサレムに侵入(AD1244-1250)
しかし、15年後の1244年、モンゴルに追われたホラズムというイスラム勢力がエルサレムを占領し、キリスト教徒を大量殺戮、聖墳墓教会などを破壊しました。ユダヤ人は帰還が許されました。
* マルムーク朝時代のエルサレム(AD1250-1517)
エジプトのアイユーブ朝は1250年に崩壊し、その支配下にあったマルムーク軍団がマルムーク朝を打ち立てました。マルムーク軍団は圧倒的な武力を持ち、特に馬術と弓に優れていたそうです。
マルムーク軍はエルサレムにも入城して支配者となりました。
この時代のエルサレムは、政治的経済的には何の価値もありませんでしたが、ムスリムの巡礼者やムスリムの定住者が増え、イスラム教の宗教センターとなっていきました。貧しい巡礼者のための宿泊施設(ホステル)やイスラムの神学校(マドラサ)がたくさん作られました。十字軍の建てた聖アンナ教会は神秘主義的イスラム教神学のセンターになりました。
下の写真はカーイト・ベイ・サビールと呼ばれる噴水で、今も神殿の丘に残っています。第8代スルタンのカイート・ベイが建てたものとのこと。マルムーク建築でもっとも美しく立派な建築物と言われています。マルムーク朝では子孫に遺産や地位を相続することが禁止されていたため、有力者は公共建築や神学校などに自分の名をつけて名を残したそうです。
エルサレムのユダヤ人はマルムーク朝の重税に苦しんでいましたが、それでも14世紀になるとイスラエルで最も重要なコミュニティに成長したそうです。近隣の国からの巡礼も盛んになり、ヨーロッパや東方からの移民も増えていきました。これは、1348年にヨーロッパで大流行したいわゆる黒死病の原因がユダヤ人にあるとして前例のない迫害を受けたことや、1391年にスペインで始まったスペイン・ユダヤ人に対する改宗強制の弾圧など、各地の迫害が大きく影響したそうです。
しかし、エルサレムの経済は、政治的に重要視されなかったために発展はなく、住民は重税や食糧難に苦しめられて人口は次第に減少していきました。1488年にエルサレムを旅行したイタリアのラビの手紙によれば、「エルサレムはほとんど破壊され、廃墟と化している。いうまでもなく町の周囲には城壁がない。」と書かれており、家屋数は4000で、その中のユダヤ人家屋はわずか70でしかないと述べているそうです。
エルサレムはオスマン朝時代に再び繁栄しますが、それ以降については次回の記事にまとめたいと思います。
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