Caesarea(カイザリア)

訪問日:20 Feb 2013

この日からいよいよロゴスミニストリーの「聖書を体験するイスラエルの旅」が始まります。日本から到着した明石清正ご夫妻を含む14名の方々、および、アメリカから来られた2名の方とは昨晩の10時過ぎにロビーで顔を合わせてご挨拶しました。当日の朝は出発予定が7時30分。早起きして7時までには朝食を済ませ、全員集まって朝の賛美と祈りのミーティングをした後、観光バスに乗り込んで、まず2号線を北上してカイザリアに向かいました。かなり早い出発ですが、これは、国立公園などの観光地が閉まるのが午後4時頃なので、できるだけ多くの場所を回れるようにとのことでした。それにしても、自分で道を探したり運転する必要がないのは本当に楽チンです。ガイドして頂くのはイスラエル人のご主人とアラドにお住まいのイスラエル政府公認日本人ガイド、恭仁子さんです。

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カイザリアはテルアビブから海岸沿いに北へ60Kmほど行ったところにあります。ヘロデ大王がBC22年から12年かけてここに大きな港湾都市を造り、ローマ皇帝(Caesar)に敬意を表してCaesareaと名付けたとのことです。当時はローマ総督府がカイザリアに置かれ、ローマ時代、ビザンチン時代を通して約500年間、イスラエル随一の国際港として発展しました。

カイザリア国立公園全体図

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カイザリアは、イエス・キリストの死後の弟子たちの活動を描いた使徒行伝の中に何度も出てきます。

  1. 7人の執事の一人ピリポは、伝道の旅をしていたときエチオピアの宦官に会い、イエス・キリストの話をして洗礼に導いた後、カイザリアに向かいました。(使徒8:26-40)
  2. ペテロがヨッパに滞在していたとき、カイザリアにいたローマの百人隊長コルネリオは、ある日夢の中に出てきた神の御使いに示されて、ペテロに使いを出してカイザリアに呼び寄せ、イエス・キリストの話を聞いて、彼の親族や友人達と共にイエスを信じました。(使徒10:1-48)
  3. ヘロデ・アグリッパ一世は、キリスト教徒を迫害していましたが、カイザリアに滞在していたとき、民衆に対して演説した後、虫にかまれて死にました。(使徒12:23)
  4. パウロは、小アジアやギリシャへの宣教旅行の中継地として、何度もカイザリアを経由しました。カイザリアには、ピリポの影響もあって多くのクリスチャンが住んでいたようです。(使徒9:30, 18:22, 21:8, 21:16,)
  5. パウロがエルサレムで捕えられた後、カイザリアに護送され、ローマ総督ペリクスの尋問を受け、弁明しました。その後、2年間カイザリアに監禁されました。(使徒23:23-35)
  6. 2年後、総督がフェストに変わったときに再度尋問を受けましたが、この時、ヘロデ・アグリッパ二世とその妹ベロニケもカイザリアに呼ばれ、パウロの弁明を聞きました。パウロはその後、ローマ皇帝への上訴のために、カイザリアの港から船に乗せられ、念願のローマに送られました。(使途25-26章)

ということで、カイザリアは紀元一世紀にキリスト教の異邦人伝道に大きな役割を果たしたところです。その後もローマ時代からビザンチン時代にかけて、クリスチャンが増え、多くのキリスト教会が建てられたということですが、1265年にイスラム軍に占領されてからは衰退したとのこと。 発掘が始まったのはずっと後の1950年のことですが、現在はきれいに復元されています。

今回見学したのは、図の左側の白丸の部分で、大きく分けて、半円形劇場、ヘロデ宮殿、闘技場の3つです。

駐車場でバスを降りた後、半円形劇場に向かう途中にローマ支配時代の彫刻が並べられています。

ここで、ツアーガイドの恭仁子さんから最初の説明がありました。豊富な知識と上品な日本語に皆聞き惚れています。

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半円形劇場の入り口付近には、発掘されたローマ時代の彫刻が展示されています。

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着物のひだなど、実に良くできていますが、どれも顔がありません。説明によると、首の部分が細いので折れてしまったとのこと。

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これは、羊飼いがひつじを背負っている像ですが、首の部分が太かったので折れなかったとのことです。ローマ時代か らビザンチン時代にかけてカイザリアには多くのキリスト教会が建てられましたが、この彫刻は教会発掘時に発見されたものとのこと。この姿から、ルカの 福音書15:5-6「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。」という部分が思い浮かびます。

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これは、ローマ支配下の都市に良く見られる半円形劇場。ヘロデ大王により建てられたもので、当時は3000~4000人収容できたもっと大きな劇場で、地中海を背景にコーラス隊を従えた大規模な劇が演じられたそうです。1960年代に発掘された後修復されて、現在はいろいろなイベントに使われていますが、黒ずんだ石は当時のままのものとのことです。

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発掘された柱頭、つまり、石柱の上にのせる飾りの石もたくさん展示されています。しかし、オスマン帝国の時代に多くの石柱が持ち去られ、各種の建築に用いられました。アッコで見た隊商宿「ハーン・エル・ウムダン」もその一つです。

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ローマ・ビザンチン時代のギリシャ様式の石の棺おけです。

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ユダヤのローマ総督ポンテオ・ピラトの名が彫られた石板も発掘されています。これはレプリカで、本物はエルサレムのイスラエル博物館に展示されています。ポンテオ・ピラトは新約聖書にあるようにイエス・キリストに十字架刑を宣告した人物としてクリスチャンにはよく知られていますが、紀元26年から36年まで実在したユダヤ州の総督で、政治家としては特に成果はあげられず本国に送り返されました。ポンテオ・ピラトという名が文字で記録されているものはこの石板だけで、他には発見されていないとのこと。 また、この石板は劇場の観客席あたりから発掘されており、最初は神殿の上に飾ってあったものが、後になって劇場の修理に使われたのではないかと言われているそうです。

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これには「ユダヤ総督であるポンテオ・ピラトがローマ皇帝ティベリウスに敬意を表して建築した」という意味がラテン語で書かれています。

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その先を歩いていくと3つの石段と柱の基礎がありました。恭仁子さんの説明では、考古学者がこれを見ると神殿の跡だとすぐに分かるそうです。これは、ポンテオ・ピラトがローマ皇帝ティベリウスに敬意を表して建てた神殿とのことで、ヘロデ大王もローマ皇帝アウグストのために神殿を建てましたが、それはこの奥にある十字軍遺跡のあたりだったとのことです。

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小さな岬のように海に突き出たところにヘロデ宮殿と呼ばれるローマ総督の官邸があります。現在は床部分しか残っていません。

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紀元一世紀頃の復元図。海の中に突き出したような形で建てられています。

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紀元57年パウロがエルサレムから護送されてこの官邸に拘置されました。パウロは最初に総督ペリクスに弁明しましたが、2年間幽閉され、交代した次の総督フェスト、および ヘロデ・アグリッパ2世とその妹ベルニケなどに対して弁明した後、ローマ皇帝に上訴するために船でローマに送られました。

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宮殿には、周囲が部屋で囲まれた中庭のある上の宮殿と、海に突き出た下の宮殿がありましたが、下の宮殿の建物は殆ど残っていません。

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下の宮殿はヘロデ大王の宮殿と言われていて、海の水を引き込んだプールが部屋の真ん中にあり、床にはモザイクが敷かれていて、建築狂と言われたヘロデ大王の特徴がよくでているということです。ヘロデ大王の在位期間はBC37年~BC4年でした。

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モザイクの床には、ツィポリにあったものと同じような幾何学的な模様が描かれています。

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パウロが幽閉されていた部屋には、真ん中にくぼみがあったとのことですが、どこのくぼみなのか良く分かっていません。また、これらのくぼみが何に使われたものかもまだ解明されていません。

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向こうの建物がある岬の反対側に古代の港があったそうです。当時としては大きな500トンくらいの船が近づくことのできる岸壁があったとのこと。 パウロはこの港から紀元59年初秋、船に乗せられ、小アジア、クレタ島やマルタ島を経てローマに送られました。

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宮殿の向こうには、広大な競技場(Hippodrome)があります。観客席は右側にしか見えません。 当時は海側にもあったそうですが、波に洗い流されてしまったそうです。 ここでは、駐在していたローマ兵を楽しませるためにいろいろな競技がおこなわれましたが、なかでも有名なのは映画「ベンハー」に出てくるチャリオット(4頭立ての馬車に引かせる戦車)の競技です。 映画「ベンハー」は架空の物語ですが、イエス・キリストの時代のことなので舞台として想定されるのはここ以外に考えられないとのこと。 イスラエルの考古学者も、この映画は実によくできているとの評価をしていて、右の奥の方に馬が出てくる出口が実際に発見されて競馬場だと分かったとのことです。 帰国後、もう一度この映画を見てみましたが、改めて素晴らしい映画だと思いました。

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私たちは再びバスに乗って、少し北の海岸沿いにあるローマ時代の導水橋を見に行きました。

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この導水橋もヘロデ大王によって作られたもので、9Kmも北にあるカーメル山の水をこの橋の上部にある水路を通してはるばるカイザリアの町まで運び込むためのものでした。今は、このように南端で途切れていますが、これは波で流されたためです。建築後、約1200年間補修されながら実際に使われていたとのことです。

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地中海に面する砂浜に延々と続く美しい風景です。

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地元の少年がきれいな貝殻をたくさん拾い集めていました。自由に持って行っていいよ、と言うので幾つかおみやげに貰ってきました。カイザリアの貝です。

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