Megiddo(メギド)
訪問日: 20 Feb 2013
カルメル山のふもとで昼食をとった後、メギドへ向かいました。今回の旅行で、メギドはイスラエルの古代史上、非常に重要な興味深い場所だと分かりました。
地理的には、エジプトからハツォルを通ってシリアに抜けるヴィア・マリス(海沿いの道)と、ツロからアッコを経てイスラエル内陸部へ抜ける道との交差点にあたる交通の要衝であり、要塞都市です。そこには古代からいろいろな国の軍隊が来て多くの戦いが繰り返され、破壊された町の残骸の上に新しい町が建てられ、だんだん高くなってテル(丘)になっているため、テル・メギドと呼ばれます。メギドには紀元前3300年頃の旧青銅器時代から都市ができていたとのことで、エジプト支配前後のカナン人の時代、紀元前10~8世紀のイスラエル王国時代を経て、紀元前8~7世紀のアッシリア支配、更にペルシャ支配の頃まで25層からなるテルです。
最初に、テル全体の模型を見ながら説明を聞きました。これは、紀元前10~9世紀頃のソロモン王の時代、または、その後の北イスラエル王国のアハブ王(建築王として知られる)の時代に建てられた要塞都市を再現したものです。聖書では、列王記上の9:15、10:26にソロモン王がメギドを築き、戦車と騎兵を配置したと書かれています。
明石牧師から教わったテルの時代区分は次のようになっています。
- 新石器時代 6000-4300B.C.
- 銅石器時代 4300-3300B.C.
- 旧青銅器時代 3300-2000B.C.
- 中青銅器時代 2000-1550B.C. 族長時代(アブラハム、イサク、ヤコブ)
- 後青銅器時代 1550-1200B.C. モーセ、ヨシュア、士師
- 鉄器時代Ⅰ時期 1200-1000B.C. 士師後期、統一国家(ダビデ、ソロモン)
- 鉄器時代Ⅱ時期 1000-586B.C. 南北王朝(イスラエルとユダ)
- 鉄器時代Ⅲ時期 586-300B.C. ペルシヤ(バビロン捕囚と帰還)
- ヘレニズム時代 300-50B.C. 中間期(旧約と新約時代の間)
テルになっているので、下の層には古い時代の建物が埋もれています。スイッチを押すと、上の層が持ち上がって、下の層が見える仕組みになっていて、ランプのついているところが、カナン時代(旧青銅器時代)に建てられた神殿と祭壇です。
次に、これらの遺跡を順番に見て行きます。
まず、古代の門に入ります。
下の説明によれば、これは、後期青銅器時代(1550-1200BC)のカナン人の町の門です。当時、メギドはエジプトに支配された属国の一つで、メギドの王はエジプトのファラオに仕えていました。
カナン時代の門は、発掘されてきれいに再現されています。石と石の間がセメントで白くなっているところは、その上が資料から再現して作られたものとのこと。木が入っているのは壁を補強するためのものとのこと。
門の内側からは、イズレエル平原が見えます。
更に進むと少し高いところにそれより後の、北イスラエル時代の城門の跡があり、その上にはアッシリアが征服した後に建てられた門の遺跡が乗っています。この城門は通路の片側半分しか残っていません。
この城門の再現図です。この説明によると、「BC10~9世紀頃にメギドはイスラエルの町になり、肥沃なイズレエル平原を統括していた。その少し後に、巨大な壁①と堂々とした城門②③④が造られた。建築時期は、ある説ではBC10世紀のソロモン王の時代と言われているが、別の学者によると、BC9世紀のアハブ王の時代、または、BC8世紀のヤロブアム2世の時代とされている。」 上の写真の門は、下図の②の城門の左側半分(白丸部分)だと思われます。
広い丘には、あちこちに、さまざまな時代の層が重なって見えます。
下図は、1925-1939年に行われたシカゴ大学の発掘調査での見取り図です。深いところまで発掘された様子が描かれており、新石器時代からペルシャの支配時代まで、多くの遺跡が何層にも重なっていることが良く分かります。
宮殿、神殿、住居、倉庫、馬屋などが重なっていたとのこと。
下の写真は模型にもあったカナン時代の祭壇と神殿の跡です。初期青銅器時代(紀元前3300~2000年頃)のものと言われているので、かなり深く掘ったところにあります。ここで、明石牧師のメッセージを聞きました。内容は「ハルマゲドン」について。
『ハルマゲドンとは、ハル・メギド(メギドの山)、つまり、ここメギドのことです。聖書を理解するには、旧約聖書の歴史における神様の働きを知る必要があります。それは、これからの時を預言しているからです。聖書に、『いろいろな王が合い集まって真の神に対して戦った』とありますが、終わりの時にも全世界の王たちがハルマゲドンに集められて最後の戦いが始まります。黙示録16:15-16「・・見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。・・こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」とあるように、私たちも目をさましていないといけません。』
下の説明によると、
「この場所は、前期青銅器時代から鉄器時代I時期まで、2000年以上にも渡って、礼拝の中心として使われてきた。シカゴ大学の調査では、重なって建てられた①③④⑤の一連の神殿が見つかった。更にテルアビブ大学の発掘では、地中海東岸地域に特有な形をした神殿②が発見され、その内部やまわりには、神にささげられた何千ものいけにえの動物の骨が見つかった。」とあります。
カナン時代(初期青銅器時代、紀元前3300~2000年頃)の祭壇は、聖書には「聖なる高台」と書かれていて偶像崇拝を行う悪しきものとされていますが、これがそっくりそのままでてきたとのことです。大きさは、直径8m、高さ2.25mで、7段の階段が付いています。
カナン人が神にささげものをしている様子が、模型で展示されていました。
これは、巨大な穀物倉庫で、45万リットルあるとのことです。歩いて降っていけるようにらせん状の坂道がついています。
テルの南側には大きな馬小屋がありました。この説明によれば、
「南の馬屋には5棟の馬小屋があり、150匹の馬を飼うことができた。北の馬小屋と同じように真ん中の通路側に2列の飼い葉桶と柱が並んでいる。紀元前8~9世紀頃に、北イスラエル王国が、メギドに大きな馬の飼育・訓練センターを持っていたと言うことから、当時大変繁栄していたことが分かる。アッシリアの紀元前8~9世紀頃の記録にも、イスラエルのチャリオット(馬で引かせる戦車)の能力が高く評価されている。」
これが、馬小屋のあったところ。飼い葉桶は石で出来ています。
最後に、地下水道を通って、出口に向かいます。
メギドには豊かな泉が岩の中にありました。平和な時代には地表を歩いていけばよいのですが、やがて城壁ができると城壁の外に水を汲みに行くのですが、敵に囲まれた時には地表を歩いていくことができません。そこで泉は外から見えないように隠し、下の図のように25mのたて穴と70mの横穴を掘りました。
このような工夫はイスラエルの要塞都市では各地に見られ、ベテシャンでは雨水、ハツオルでは地下水のための水道があります。
(以上、恭仁子さんの説明より)
たて穴はかなり大きく深いですが、見学者用にしっかりした階段がつけられています。途中の壁には鳥が巣を作ったりしています。
しばらく縦に降っていきます。
斜めに降って、
地下道を横に進んでいくと、
真っ暗な一番奥に水源がありました。澄んだきれいな水です。
そこから斜めに登ると出口です。
外に出ると、緑の草とアネモネの花がきれいでした。
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Tel Megiddo
テル・メギド
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