Tel Beer Sheva(テル・ベエルシェバ)

訪問日: 25 Feb 2013

「ダンからベエル・シェバまで」という言葉が、旧約聖書にはよく出てきますが、これは、「イスラエルの北から南まで」を意味しており、ベエル・シェバは、イスラエルの最南端の町でした。ここテル・ベエル・シェバは、紀元前4000年頃から人が住み始めたそうですが、2000年以上の空白の後、紀元前12世紀頃からイスラエル人が集落を作って住み始めました。その後何度も壊されたり再建されたりして15層のテル(丘状遺跡)となりましたが、現在発掘されて地表に現われているのは主にユダ王国時代(紀元前10から7世紀頃)のものだそうです。

全体図を下に示します。

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ベエル・シェバという地名は、創世記の族長物語によく出てきますが、その当時はベドウィンのようなテント生活でしたので、遺跡としては何も残っていません。ただ、幾つかの井戸が残っていて、”アブラハムの井戸”などと呼ばれたりしています。

下の図はユダ王国、ヒゼキヤ王の時代の再現図です。町を取り囲んだ2重壁の内側に周回道路があり、それと直角につながる道路もあって、どの道も門を入ったところにある広場に向かうようになっています。また、排水溝も作られていて、雨が降ったときに雨水が門の下から外に流れ出るようになっています。大きな貯水システムもあって、戦争のときでも町の中で水が汲めるようになっています。町は75世帯約300名の人が住んでいて、倉庫、地下室、監督官の建物や統治者の宮殿、神殿などの公共の建物もありました。この町は、恐らく、紀元前701年のアッシリアのセナケリブ王の侵略により破壊されました。

列王記第二18:13 ” ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。”

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このテルも国立公園になっていて、入口を入ると、まず祭壇がありました。きれいに削られた石で作られており、4つの角がついています。但し、これはレプリカで、本物はエルサレムのイスラエル博物館にあるそうです。

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この祭壇の説明です。祭壇の石は倉庫の壁の中から発見されました。他の丸い石と違ってきれいに削られていたので組み立ててみるときれいな祭壇になったということです。大きさは1.6m四方。これは、ミニ神殿として祭られていたものが、ヒゼキヤ王の宗教改革の時に壊されたものと考えられています。

列王記第二18:4 ” 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。・・・・・・”

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町の門の手前には、井戸がありました。左側に立っている木は、聖書に出てくる”ぎょうりゅう(柳の一種)”の木だそうです。

創世記21:33  ”アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。”

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井戸の横には水を溜める溝がついていて、下の説明図にあるように家畜に水を飲ませたそうです。

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この井戸が、創世記に書かれたものだという学者もいるそうです。

創世記21:30ー31 ” アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。”

創世記26:32-33 ”ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。”

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井戸の深さは70mとのこと。町の人だけでなく、旅人にも飲ませたとのこと。

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このようなハンドルで桶を巻き上げました。

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町の外門を入ります。

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道の端に「Drainage Channel(排水溝)」と書かれた看板がありました。

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町に降った雨水が溢れて家の壁が壊されないように町の外に流し出すための溝とのこと。もちろん、その水は貯水池に導かれています。

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更に進んでThe Main Gate(正門)の跡を通ります。

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門は町の守りのためであると同時に、集会の場であり、裁き司が座る場所でもありました。この町は、計画的に造られた町で、いろいろな役の代表者とその家族が住んでいたとのことです。

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正門を入ったところに市民広場があり、町の中のすべての道路が、この広場に通ずるようになっています。

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これが広場から出る周回道路。外壁に平行になっていて、一周してこの広場に戻るようになっています。家々の壁は玄武岩を積んだものの上に日干しレンガが重ねてあります。

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Peripheral Street(周辺道路)と書かれています。 外壁に平行に町を一周しているので周回道路と訳しました。道幅は2mとのこと。

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町の統治者の宮殿です。キッチンや倉庫などを持つ住居部分と、石が敷かれた廊下と、儀式を行うことの出来る2つのホールがありました。

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周回道路を歩いていきます。右側は宮殿跡。

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周回道路の一部に3mほど掘られたところがあり、「Early Street(初期の道)」とありました。これは、第5層から第2層の時代まで、層は違っても同じ場所が道として使われていたことを示しています。

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これは、地下室(Basement House)とあり、地表から4m下のところが床になっています。

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これらの地下室のうち2つは貯蔵庫として使われていたとか。考古学者アハロニ教授の説では、宗教改革以前には、ここに異教の神殿が立っていて、それが壊されたものだということです。

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町の外壁は2重壁(Casemate Wall)になっています。2つの壁が平行に建てられ、その間の空間は武器や食料の貯蔵庫として使われ、内側の壁は住居の一部になっていました。

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ここは、住居地区とあります。

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当時の典型的な住居は「4部屋式」と呼ばれるもので、普通の石が積み上げられて造られましたが、幾つかの石はきれいに削られていたそうです。

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4部屋式住居の説明図。3つの平行に並んだ部屋と、それらと直角に接する部屋とからなります。家の前には庭があってオーブンが置いてあり、また、屋上に通じる階段がありました。

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3部屋式とか、いろいろなバリエーションもあったとのこと。

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展望塔からは、テル全体の様子が分かります。

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4枚の写真をつなげてパノラマ写真にして見ました。(クリックすると大きくなります。)

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これは、大きな倉庫とのこと。倉庫は3つ並んでいます。食料をはじめいろいろなものが戦争の時のために蓄えられていたとのこと。この構造物の中にきれいに削られた石が見つかり、壊された祭壇の石が使われていたことが分かりました。

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真ん中が広い通路になっていて、ロバが荷を降ろせるようになっていました。構造的にはメギドの馬屋やハツォルの倉庫に良く似ています。

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最後に、地下にある大きな貯水池を見に行きました。敵に取り囲まれても水が汲めるようにするためのものです。これが入口の階段です。

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階段は石造りで、17m下まで降りていきます。

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途中の壁には、やはり鳥の巣が。スズメのようです。

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いよいよ坑道へ入ります。

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中は、きれいに繰り抜かれた石のトンネルになっています。

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階段を降りきったところに貯水槽がありました。

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水は溜まっていないようですが、表面にしっくいが丁寧に塗られており、水が漏れないようになっています。このような貯水施設が全部で5つあり、全部で700立方メートルの容量があるそうです。

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別の階段を上って外に出ました。

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貯水施設へ水を導くために水路が掘られています。

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ヘブロン川から溢れた水がこの水路を通って地下の貯水池に溜められました。

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テルの外を見ると、羊の群れが見えました。3000年以上昔の風景が重なります。

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この遺跡は、テル・ベエル・シェバの人々が計画的機能的に町を造って社会的組織的な生活をしていたことを示していますが、3000年も前のことだと思うと驚くべきことです。

このような機能的な町であり、要塞であったテル・ベエル・シェバですが、紀元前701年にアッシリアに破壊されてしまいました。その後ペルシャ時代、ヘレニズム時代、ヘロデ大王の時代、ローマ・ビザンチン時代、初期アラブ時代、などには小規模な要塞として使われましたが、その後廃墟となり、1969-1976年になってテルアビブ大学のアハロニ教授によって発掘が始められました。1990年以降、大規模な復元作業が続けられ、2003年にやっと貯水施設まで公開されるようになり、2005年には、メギド、ハツォルと共に、Biblical Tel(聖書的丘状遺跡)としてUNESCOの世界遺産に登録されました。