Mount of Olive(オリーブ山)

訪問日: 26 Feb 2013

いよいよ聖都エルサレムに入りました。今回のツアーの核心部分ですが、見るものがたくさんあり、多少の疲れも出てきて、見学時点では十分理解できない状態でした。従って、帰国後に調べることも多く、内容も深いため、旅行記を書くのに時間がかかっています。

言い訳はさておき、最初に訪れたのはオリーブ山。頂上近くにある見晴らしの良いところでバスを降り、神殿の丘を中心とするエルサレムの旧市街を眺めました。

オリーブ山は、エルサレムの東端にあり、ケデロンの谷を挟んで神殿の丘の向かい側にある丘陵です。標高は818m、神殿の丘より約100m弱高くなっています。

下の写真は、神殿の丘の南下にあたるダビデの町から見上げたオリーブ山の写真です。頂上には、「Seven Arches Hotel」があります。このホテルの前あたりでバスを降りました。下に見える谷は、神殿の丘との間にあるケデロンの谷です。

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下の写真は、同じ山をエルサレム旧市外の城壁の上から見たところです。私達は、セブン・アーチズ・ホテルの前あたりでバスを降り、神殿の丘を中心とするエルサレムの全景を見て感激したあと、左の方へ歩いて主の涙の教会へ向かいました。

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オリーブ山から見たエルサレム旧市外の全景です。テレビや本などによく出てくる有名な景色です。

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これを、何枚かの連続写真で撮りましたので、パノラマ写真ツール(Microsoft ICE)を使って連結してみました。下の写真をカチカチとクリックすると大きくなります。

正面に広がっているのは神殿の丘で、中央に金色の屋根のドームが見えます。これは7世紀末に作られたイスラム教の「岩のドーム」です。紀元前10世紀のソロモン王の時代には、ソロモンの神殿、いわゆる第一神殿がありましたが、これは、紀元前587年にバビロニア王国によって完全に破壊されました。その後、バビロン捕囚からの帰還者によって紀元前444年頃に第二神殿が建てられ、紀元一世紀のイエスの時代には、ヘロデ大王が修繕・拡張して、当時の最も偉大な建築と言われましたが、紀元70年にローマ軍の攻撃により破壊されてしまいました。

左端にあるのが南壁で、その左に考古学公園があり、壁際にはイエス時代に神殿へ礼拝に行くために使われた階段があります。この階段をイエス様は何度も通られたものと思われます。正面に長く横に伸びているのは東壁で、その中央あたりにあるのが「金門」、さらに右側に行くと「ライオン門(ステパノ門)」があります。「岩のドーム」の左上には、イエス様が十字架につけられ、葬られたといわれる場所に建てられた「聖墳墓教会」の黒い丸いドームが見えます。

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イエス時代の頃のエルサレムを再現した50分の1モデルでは、神殿の丘あたりは下の写真のようになります。

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下の写真は、神殿の丘の南側の写真を2枚重ねたものです。ダブルクリックして大きい写真で見てください。ダビデの町を中心に、ケデロンの谷とヒンノムの谷が合流する様子が分かります。写真の中央の上側にはシオンの丘が見えます。このあたりは、紀元1世紀のイエス時代には城壁の中にあって、「上の町」と呼ばれ、祭司や貴族が住んでいました。鶏鳴教会の青い丸屋根が見えますが、この教会はペテロが3回主を否定したところとされる場所に建てられたもの、この教会は大祭司カヤパの邸宅跡と伝えられていて、その地下にはゲッセマネの園で捕えられたイエスが連れてこられて入れられた岩の牢屋があるとか。また、その近くには、最後の晩餐の部屋とか、ダビデの墓とか、多くの聖書に出てくる遺跡があります。

つまり、ここオリーブ山の周辺(ベタニヤやベテパゲの町々や、中腹にあるゲッセマネ)から、最後の晩餐の部屋があったシオンの丘(上の町)あたりの間を、ケデロンの谷を通って、イエス様と弟子達は、間違いなく何度も行ったり来たりしていたということになります!!

”それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。”(マタイ21:1-2)

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オリーブ山の山麓には、おびただしい数のユダヤ人の墓があります。これは、古代から、救い主はオリーブ山に現われ、死人はよみがえると信じられているからとのことで、旧約聖書のゼカリヤ14:4-5 ”その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。・・・・・・私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。”という部分によるとのことです。

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それから、主の涙の教会(Dominus Flevet)へ向かって歩きました。このあたりはアラブ人の物売りが多く、エルサレムの大きなパノラマ写真を1ドルで売り歩いていたので買ってしまいました。

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主の涙の教会へ入ります。

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まず見たのは、古代の共同墓地の跡。この教会を立て始める前の発掘によって発見されたそうです。

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多くの石の棺も発見されました。この墓穴自体は、カナン時代からビザンチン時代まで使われていたそうですが、第二神殿時代のものが一番多く発見されたそうです。

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主の涙の教会は涙の粒をかたどっているとのこと。イエス・キリストは、この場所でエルサレムを見て、その来るべき滅亡を嘆き悲しんだとされています。

”エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ19:41-44)

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この場所から、イエス様が見たと思われる景色です。当時は、第二神殿がそびえていました。

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ここで、明石牧師がメッセージ。

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オリーブの木も植えられています。現在のオリーブ山の姿は、お墓に取り囲まれて灰色をしていますが、イエス時代にはオリーブの木がたくさんあり、一面このようになっていたと思われます。

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次に、少し下ってゲッセマネの園に行きました。ゲッセマネとは、”油絞り”という意味なので、オリーブ油がたくさん作られていたところのようです。 オリーブの木は、不死の木とも言われるように、今も古い木が幾つか残っていて、これらの古木は樹齢3000年とのこと。

ゲッセマネは、イエス様が祈りの場としてよく来られたところです。

”それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。”(ルカ22:39)

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その庭には「万国民の教会(Church of All Nations)」、または、「苦悶の教会(Bacilica of Agony)」とも呼ばれるカトリックの教会が建っています。

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イエス様は、弟子達と最後の晩餐をしたあと、ケデロンの谷を越えてゲッセマネに来ました。

”いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。” (ルカ22:40-44)

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イエス様が苦悶の祈りをしたとされる場所に建てられたのが、この「苦悶の教会(Bacilica of Agony)」です。

教会堂の正面には苦悶の祈りの様子を描いた大きな絵がかけられています。

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イエス様が岩の上で苦悶している様子が描かれています。

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この祭壇の手前が広くなっていて、数名の人が取り囲んで祈っていました。「御苦悶の岩」と呼ばれる白い大きな石灰岩があるそうなのですが、訪問したときにはそれに気づかず、途中で引き返してしまいました。本物かどうかは分かりませんが、残念!

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ゲッセマネでは、イエス様がユダに導かれた祭司達に逮捕されますが、その様子を描いた壁画もありました。

”イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。”(ルカ22:47)

このあと、イエス様は捕えられ、ケデロンの谷を通って、現在の鶏鳴教会のところにあった大祭司カヤパの家に連行されて、尋問されました。

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万国民の教会の立派な外観です。

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正面の壁画も、イエス・キリストの苦悶の祈りを描いたものとのこと。

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オリーブ山は、旧約聖書にも、よく出てきます。

1. ダビデが、息子アブシャロムの謀反のため、ダビデの町を追われた。

(第二サムエル15:30) ” ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。”

2. ソロモンが異教の神に従い、オリーブ山の上に異教の祭壇を築いた。このため、イスラエルの神は、ソロモンの死後、王国を北と南に分裂させた。

(第一列王記 11:5-7) ”ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。”

3. ユダのヨシア王は、宗教改革を行い、ソロモンが作ったオリーブ山の異教の祭壇を取り壊した。

(第二列王記23:13) ”王は、イスラエルの王ソロモンがシドン人の、忌むべき、アシュタロテ、モアブの、忌むべきケモシュ、アモン人の、忌みきらうべきミルコムのためにエルサレムの東、破壊の山の南に築いた高き所を汚した。”

そして、使途行伝には復活したイエス・キリストがオリーブ山から天に昇る様子が次のように書かれています。

(使途行伝1:9-12) ”こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。”

 

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