Upper Room (Coenaculum)(二階の間、最後の晩餐の部屋)

訪問日: 26 Feb 2014

現在のシオン門の外にある「最後の晩餐の部屋」を見に行きました。ここは、「二階の間」とか「ケナクルム」等と言われ、また、この部屋の真下には、「ダビデの墓」があります。26日の午後見に行ったのですが、「二階の間」も「ダビデの墓」もあまり記憶がありません。その時の写真を見て、ぼんやりと思い出しています。

下の写真は、シオン門です。この門では、1948年の独立戦争の時に壮烈な銃撃戦があり、たくさんの弾痕が残っています。しかし、その時はイスラエルは破れて旧市街はヨルダン領となり、1967年の第3次中東戦争(六日戦争)で勝利した後、イスラエルの支配下となりました。

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途中の道端では、楽器を弾きながら歌うユダヤ人がいました。なかなか心に沁みるイスラエルの歌でした。

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堅固な石造りの建物に入ります。

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「ダビデの墓」があるからでしょうか、金色のダビデの像がありました。

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立派な入口を入って2階へ登ります。

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2階には、天井の高い広々とした部屋がありました。これが、最後の晩餐が行われた「二階の間」だそうですが、イエス様と12人の弟子たちが横になって食事をしたというイメージとは程遠いものでした。それで、記憶に残っていないものと思われます。

では、何故、このような近代的な雰囲気の部屋が、2000年前にイエスと12弟子が最後の食事をした部屋だとされているのでしょうか?

恭仁子さんの説明と、「聖都エルサレム5000年の歴史」などを参考にしながら、整理してみました。

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  •  AD70年にローマ軍がエルサレムを破壊したとき、エルサレムにいたユダヤ人キリスト教徒たちは山に逃れた。その後、AD2世紀頃に戻ってきて、焼け残った石材を使って、ここにユダヤ人キリスト教徒のためのシナゴーグを建てた。その指導者は、最初のエルサレム司教聖ヤコブの後継者だったと言われている。
  • その後のエルサレム司教キュリロス(AD315-387)は、ペンテコステ(聖霊降臨)の起こった場所を「使徒たちの二階の教会」と呼んでいる。その時から、このシナゴーグは「使徒たちの教会」と呼ばれるようになった。
  • ビザンチン時代になって、皇帝テオドシウス一世(在位AD379-395)が大規模に建て替え、「聖シオン教会」とした。マリア永眠教会の2倍半ほどの大きな教会だったと言われている。
  • AD614年にササン朝ペルシャによって破壊された。
  • 一時、再建されたが、AD1009年にアル・ハーキムによって再び破壊された。
  • AD1099年に十字軍がエルサレムを占領した時、ビザンチン時代の「聖シオン教会」の遺蹟を発見。教会の南の付属建物がかなり残っており、それが、最後の晩餐の部屋と信じられた。
  • 十字軍は、その教会跡に「シオンの聖マリア教会」を新しく建て、その中に二階を設け、この記念すべき部屋を組み込んで「二階の間」とした。そして、伝承により、ここが聖霊降臨の場所であり、また、イエスの母マリアがここで生活していたとした。
  • 更に、十字軍は、教会跡に「ダビデの墓」を発見したとして、一階にゴシック式の大きな石棺を設置した。
  • AD1219年、アイユーブ朝のスルタンによって破壊された。
  • AD1335-1337年に、カトリックのフランシスコ会がこの地を購入し、破壊された「二階の間」を修復し、その南に修道院を建てた。当時は、「二階の間」を修道士たちの共同食堂に使っていたとのこと。しかし、一階のダビデの墓の部屋はムスリムの聖職者たちが住居として使用していた。
  • AD16世紀中ごろムスリムはフランシスコ会を追い出し、彼らが戻ってこないように、「二階の間」も「ダビデの墓」もモスクに変え、その壁面にメッカの方向を示す凹みと、ムスリムの模様のステンドグラスを設けた。これらは、下の写真のように、今も残っています。

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1948年のイスラエル独立後は、シオン山はイスラエル領となり、イスラエル宗教省が管理しています。ダビデの墓の隣にはユダヤ人の小さなシナゴーグが作られ、2階はキリスト教の訪問者に公開されていて、ペンテコステの行事が毎年行われているそうです。

最後の晩餐というと、下のような様子を思い浮かべるのですが、そのような雰囲気は全くありませんでした。(この木彫りは、ベツレヘムのお土産屋にて撮影)

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最後の晩餐については、4つの福音書すべてに詳しく書かれていますが、ルカの福音書には次のように書かれています。

” イエスはペテ ロとヨハネとを使いに出して言われた、「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょ うか。」 イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が 整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。” (ルカ22:7-14)

また、ペンテコステ(聖霊降臨)については、使徒行伝に次のように書かれています。

” 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。” (使徒2:1-4)

この「一つ所に集まっていた」のが、この場所だという伝承があったようです。

次に、階下へ降りると「ダビデの墓」がありました。この看板はヘブライ語なので読めませんが、「ダビデ王の墓」と書いてあるのでしょうか?

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使徒行伝によると、聖霊降臨のあった時にペテロが演説をしましたが、その中で次のように言われているので、ここで発見された墓の一つをダビデの墓としたようです。

使徒2:29 ” 兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。”

シナゴーグには、たくさんの本が置いてありました。すべてヘブライ語。男の部屋と女の部屋と別れていて、これは男の部屋で、必ず帽子をかぶらないといけません。

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ダビデの石棺の真ん中に男女の部屋の仕切りがあり、こちら側半分に布が掛けられていて、正統派ユダヤ教徒がお祈りをしていました。

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こちらが、シナゴーグの女性側の部屋です。こちら側の石棺には、布が掛けられていません。

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建物は十字軍らしい頑丈な石造りのものです。

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イスラエル博物館にあるAD66年のエルサレムの1/50モデルでは、ダビデの墓は下のようになっていて、「二階の間」は見当たりません。下の住宅のどれかでしょうか?

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ご参考までに、最後の晩餐の前後のイエス様の行程を説明した地図を添付しておきます。「バイブルワールド 地図でめぐる聖書」(ニック・ペイジ著)より

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