Tower of David : Museum of the History of Jerusalem (1 of 3) (ダビデの塔 : エルサレムの歴史博物館 前篇)

訪問日: Sun. 3 March, 2013

ダビデの塔の内部は博物館になっていて、正式名称は、「Tower of David : Museum of the History of Jerusalem」、すなわち、「エルサレム歴史博物館」になっています。この建物の発掘は1988年に終了しましたが、遺跡全体が整備され、さらにエルサレムの歴史が一目で理解できるような博物館をつくる構想が練られました。この博物館の特徴は、遺跡の出土品を展示するのではなく、エルサレム5000年の歴史を年代を追って、その変遷を豊富な資料、写真、図、絵、模型などを通してビジュアルに理解させるものになっています。たくさんあるので3篇に分け、前篇では紀元一世紀の第二神殿時代までをご紹介します。

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最初は、ファサエルの塔の中にあるシアターで15分ほどのアニメーション映画を見ることから始まります。アブラハムがイサクを連れてモリヤの山に登るところから始まり、エルサレムの歴史を簡単にざっと説明しているものでした。

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エルサレムという名前が書かれたもので一番古いものは、シリアのアレッポの南にあるマルディフの王宮文庫跡から発見された粘土板文書だそうです。そこには、紀元前3000年紀にエブラ帝国があったとのこと。シュメール語と古代カナン語で「ウルサリム」と書かれているとのこと。

下の図は、カナン時代の都市国家の説明です。

”エルサレムの町がどのように始まったのかについてははっきりしていません。歴史に最初に登場したのは紀元前2000年頃、後に神殿の丘となる場所の南側、ギホンの泉の上の丘の斜面に建てられた小さな要塞の町でした。紀元前2000年紀の後半はエジプトのファラオがカナン地方を支配していて、エルサレムの王もエジプトに隷属していました。BC1200年頃にはヨシュアが率いるイスラエル民族がエルサレムの王アドニ・ツエデクをギベオンの近くで殺しましたが、エルサレムの町は、ダビデの時代までイスラエル民族に征服されませんでした。”

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次の粘土人形は、胴体の上に呪詛文書といわれるものが書かれています。これは、紀元前19世紀頃のものですが、当時カナン地方には多数の都市国家が散在し、宗主国エジプトに毎年所定の貢ぎ物を送っていました。これを怠ると謀反とみなされ、エジプトから懲罰の軍隊が差し向けられたそうです。その時に使用されたのがこの人形で、表面に謀反を起こした都市国家の名前とその支配者の名前が刻まれていました。その一つにエルサレムを意味する「ルシャリムーム」という国名が書かれているそうです。

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次は、エジプトのテル・アマルナで発見された紀元前14世紀頃のエル・アマルナ書簡です。350の書簡のうち6通がエルサレムの王からエジプトの王に宛てたもので、これはその一つです。内容は、当時このあたりを荒らしまわっていたハビルという部族に脅威にさらされていたエルサレムに援軍を送ってほしいというものだそうです。

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また、聖書に出てくるもっとも古い記述は、アブラハムがシャレムの王メルキゼデクに祝福されたというお話。創世記14章に書かれています。シャレムとはエルサレムのことです。

創世記14:18-20

”さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。”

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下の写真は、カナンの女神を描いた金の刻板です。当時の典型的なカナン芸術だそうですが、エジプトの影響が強く見られるとのこと。ラキシュで発見された紀元前13世紀のもののコピー。

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カナン地方は、地中海沿いの豊饒な三日月状地帯で、エジプトとメソポタミアという二つの強大な文化圏をつなぐ回廊になっていました。エジプトは、紀元前2000年紀の中頃にもっとも大きな影響を及ぼしていましたが紀元前12世紀の中頃には引き上げました。

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ダビデ王とその後継者たちが聖なる場所とした神殿の丘は、アブラハムが息子イサクを献げ祭壇を築いたモリヤの山であり、その起源は族長時代(紀元前20世紀頃)までさかのぼります。

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紀元前13世紀頃・・・イスラエル人がモーゼに率いられ、エジプト脱出。シナイの荒野をさ迷う。

紀元前1250年頃・・・モーゼの後継者ヨシュアの指導によりカナンの地に進出・定着

イスラエルの12部族に領土が与えられました。

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紀元前1220年頃・・・士師の時代

紀元前1050年頃・・・祭司サムエルの時代

紀元前1020-1006年・・・サムエルがサウルをイスラエル王国初代王に任命。サウル王は、自身の出身であるベンヤミン族のギベアを首都としました。

少年ダビデは、サウル王がペリシテ人との戦いに苦戦しているのを見て、果敢にもペリシテ軍の巨人ゴリアテに一対一の勝負を挑み、見事打ち倒しました。

下の銅像は、ベロッキオ作のダビデ像。イタリアのフィレンツェ市からエルサレム市に寄贈されたもののコピーです。

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紀元前1006-965年・・・ダビデ王の時代

サウル王の死後、ダビデがユダ部族の王になり、まず、ヘブロンを首都として7年6ヶ月治めました。

その後、ダビデは、ユダ部族と他のイスラエル部族との間に挟まれたエブス人の町エルサレムを攻略して首都とし、イスラエル統一王国を築き、33年間治めて生涯を終えました。

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ダビデは、エブス人の砦の廃墟の上に強固な城塞を建築しました。今も「ダビデの町」の遺跡に残る階段状の石の構造物はダビデの町の城塞を支える擁壁だったとされています。城壁で囲まれた町の一番上にある立派な建物がダビデの宮殿です。

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ダビデの王国は、全イスラエルを統一し、幾つかの周辺国を征服し影響を及ぼしました。

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ダビデ王の死後は、その息子ソロモン(紀元前965-930年)が統一王国の王となり、イスラエルは繁栄を極めました。

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ソロモン王は、市域を拡張し、モリヤの山にイスラエル統一のシンボルとなった大神殿(いわゆる第一神殿)を建築しました。エルサレムはソロモンの死までイスラエル統一王国の首都でした。

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ソロモン王の死後、イスラエルは南王国のユダと北王国のイスラエルに分裂しました。エルサレムはユダ王国の首都として発展していきます。ユダ王ヒゼキヤ(在位BC715~686)の時代には西側の現在のシオン山の周りまで拡張され、城壁で囲まれていたということです。

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BC722年、北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされましたが、南王国ユダのヒゼキヤ王は有事に備え、ユダの町々の要塞化を急ぎました。特に、首都防衛のために重要な水源であるギホンの泉の水をエルサレム城内に設けたシロアムの池に導く大規模なトンネル工事は有名です。両側から岩を掘り進んで530mもあるトンネルを貫通させた技術には感心させられます。このトンネルは今でも腰まで水に浸かりながら歩いていくことができますが、今回の旅行では水が深く冷たいということで断念しました。

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ヒゼキヤ王は各地の要塞を強固にしましたが、アッシリアはユダヤに攻めてきて前哨要塞ラキシュをすさまじい攻防戦の後陥落させました。そして、ついに司令官ラブ・シャケが率いる強力なアッシリア軍がエルサレムを包囲し無条件降伏を迫りましたが、このヒゼキヤ・トンネルには気付かなかったとのことです。

下の説明では、

”BC701年、アッシリアのセナケリブ王の軍隊はエルサレムを包囲した。防衛軍が絶望しかけたとき、ヒゼキヤ王はアッシリア軍の脅しを意に介さなかった預言者イザヤに訴えた。イザヤはヒゼキヤを励まし、エルサレムは陥落しないと約束した。すると、本当に、包囲は突然解かれ、エルサレムは救われた。”

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聖書には次のように書かれています。

(列王記第二19:34-36) ”「──【主】の御告げだ──わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」 その夜、【主】の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。”

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強大なアッシリア帝国も、BC627年にアシュルバニバル王が死ぬと急速に衰退し、BC610年にはバビロンに滅ばされてしまいました。

その後バビロン軍はエジプト軍も打ち破り、バビロンの王ネブカデネザルの軍隊がエルサレムを包囲しました。 そして、BC597年、ついにユダヤの王エホヤキンは降伏し、彼の家族とユダの上流階級約一万人がバビロンに捕囚されていきました。さらにBC587年、BC582年にも多くの住民がバビロン(現在のバグダッドの南方90Kmのところにあった)に移され、捕囚期間は60年ほど続きました。これが、有名なバビロン捕囚です。

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下のレリーフはバビロンでの捕囚民の生活を描いています。彼らは、預言者エゼキエルやエレミヤのことばに励まされ、民族としての結束を固めていました。

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しかし、BC539年、強大なバビロン帝国もペルシャのキュロス王によって滅ぼされました。

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そして、BC538年頃、ユダヤの民はキュロス王の絶大な好意的布告によって故国への帰還が開始されました。

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その上、ペルシャの国庫負担によってエルサレムに神殿を再建することもできました。

(エズラ記6:3-4)

”クロス王の第一年に、クロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえがささげられる宮を建て、その礎を定めよ。宮の高さは六十キュビト、その幅も六十キュビト。大きな石の層は三段。木材の層は一段にする。その費用は王家から支払う。”

これがいわゆる第二神殿で、BC515年に完成しました。後にヘロデによって大改修された後AD70年にローマ軍に破壊されるまでの間を第二神殿時代といいます。

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その後、ユダヤはペルシャの一属州となりましたが、エルサレムはユダヤの聖都として重要性を回復しました。この間に、エズラによる律法(トーラー)の公布があり、続いて他の旧約聖書各巻の編成が行われ、神殿の祭事とそれを維持するための祭司制度が確立されたそうです。

しかし、BC330年にペルシャのダレイオス3世がマケドニアのアレクサンダー大王に敗れ、200年の栄光の歴史を閉じると、ユダヤはアレクサンダー大王の統治下に入りました。ギリシャ文化とオリエント文化が融合したヘレニズム時代が始まります。

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BC323年にアレクサンダーが急逝すると、マケドニア帝国は、アンティゴノス朝マケドニア(BC306-301)、プトレマイオス朝エジプト(BC305-30)、セレウコス朝シリア(BC312-64)などに分裂します。

ユダヤは、最初はアレキサンドリアを首都とするプトレマイオス王国の支配下におかれましたが、その後、アンテオケを首都とするセレウコス朝が支配権を奪取しました。シリアのアンティオコス3世まではユダヤ教の信仰の自由は保証されていましたが、BC169年、セレウコス朝アンティオコス4世エピファネスが王になると、一変してギリシャ化政策を強行し、ユダヤ教を禁止してエルサレムの神殿を略奪し、ゼウスの祭壇を設けてユダヤ人に礼拝を強制しました。

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このアンティオコス・エピファネスが、ダニエル書8:9に預言されている”大きくなっていった小さな角”だと言われています。また、彼は黙示録に出てくる反キリストの型だとも言われています。ロゴスミニストリーの聖書解説によれば、”彼は、ものすごく横柄で狡猾な人物であり、大勢のユダヤ人を殺し、ギリ シヤ文化を無理やり押し付けました。” とあります。

この宗教弾圧に反旗をひるがえしたのが、祭司家のハスモン(マカバイ)家で、革命戦争を起こしました。これは成功し、BC164年12月25日、エルサレムとその神殿をシリアから取り戻し、ユダヤの独立を成し遂げました。そして、神殿を再興し、「宮潔め」を行いました。これが、現在でも祝われているハヌカの祭りの起源となりました。

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その後、ハスモン家は大祭司と世襲王を兼ね、後にローマとその手先となったヘロデ大王によってBC37年に滅ばされるまで、ハスモン王朝として存続しました。

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BC63年、ローマ皇帝ポンペイウスがエルサレムを占領。

BC37年、イドマヤ(エドム)人ヘロデが、ローマ皇帝の援助を得て、属国ユダヤの王となりました(在位BC37-BC4)。下の図は、ヘロデ時代のエルサレム城壁の様子です。第一城壁に加えて、現在のヤッフォ門の近くにあったゲンナト門と呼ばれる門から北に延び、市の北方地域をめぐってアントニア要塞まで達していた第二城壁がありました。発掘調査によれば、イエスが十字架をかついでゴルゴダに進んだのは、このゲンナト門(園の門の意味)から北にのびた第二城壁の中央あたりの門を西に通過したと想定されるそうです。(聖都エルサレム5000年の歴史「関谷定夫著」より)

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ヘロデ大王は、建築において優れた才能を発揮しました。なかでも、エルサレムの第二神殿は広大な神域と華麗な神殿や巨大な石壁を持つものに大規模改修され、80年を費やしてAD64年、ヘロデ・アグリッパ二世の時に完成しました。ローマのアウグストゥス時代では世界最大の神殿の一つだったそうです。

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神殿の構造は、外庭と内庭に分けられており、外庭には異邦人も入れましたが、内庭は、婦人の庭、イスラエル人の庭、祭司の庭とから成っていて異邦人が入ることは禁じられていました。外庭と内庭との境には石の仕切り壁がめぐらされ、ギリシャ語またはラテン語で次のように書かれた石版が等間隔に取り付けられていました。

”異邦人は神殿を取り巻くこの柵の中に入ってはいけない。入ったものは誰でも捕えられ死刑に処せられる。”

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また、神殿の南壁にあったフルダ門の石の一部も展示されていました。幾何学的な花のデザインが施されています。イエス・キリストはこの門を通って神殿の出入りをしたものと思われます。

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ヘロデ時代(AD60年頃)のエルサレムの模型です。イエス・キリストの死後まもない時代でもあります。第二城壁の外にあるゴルゴダの小さい丘が見えますが、ここで、イエスが十字架につけられました。

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このダビデの塔:エルサレム歴史博物館は、ユダヤ人であるエルサレム市長が発起人となって作られたとのことですが、キリスト教についても、イスラム教についても、客観的に展示されています。

ナザレのイエスについて、次のような一連の絵で説明がありました。まず、「最後の晩餐」の様子を描いたもの。イタリアの教会にある6世紀頃のものです。

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次の絵は、「ローマ総督ピラトの前で裁判を受けるイエス」

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そして、「十字架につけられるイエス」、これは、イタリアのフィレンツエの教会で8世紀頃に書かれたものとのこと。

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そして次のような解説がありました。

”過越しの祭りの巡礼の時、ナザレのイエスはローマ総督ピラトのもとに連れてこられ、裁判を受けて十字架刑にされた。

その300年後、彼の生と死に関連した場所は、ユダヤ教から発展した新しい信仰、キリスト教の聖地となった。”

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”十字架刑は、ローマ軍に共通の反乱軍に対する刑で、ユダヤの反乱では数千の人が十字架刑に処せられた。エルサレムで発見されたこの納骨箱には十字架刑にされた男の骨が入っていて、Yohohanan ben Hazkulという名前が彫られている。”

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第二神殿時代の典型的なお墓です。右は「サンへドリンの墓」と呼ばれるもので、富裕層の共同墓地だったとのこと。左は回転する丸い石の扉を持つ墓の入り口。

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この時代のローマ総督は、公邸はカイザイリアにありましたが、ユダヤの祭りの時期などにしばしばエルサレムに来ていました。この写真はカイザリアで発見された石の碑文です。AD26-36年にユダヤの総督であったポンテオ・ピラトの名前がPrefect(総督)という役職名と共に書かれています。

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パウロはBC60年頃、このカイザリアに2年間幽閉された後、船でローマに送られました。その時にローマ総督はフェリックスからにフェストに変わりました。

ローマの支配下にあったユダヤ人は、ヘロデやその後継者のアケラオなどにも反感と憎悪をもっていたが、ローマの総督ポンテオ・ピラトがローマ皇帝の肖像を描いた軍旗をエルサレムに持ち込んだことに激高した。その後、ユダヤの各地で反乱がおこったが、ローマ総督フェリックスは武力でユダヤ暴民を殺戮し財産を略奪した。AD66年には各地にユダヤ独立解放軍が編成され第一次ユダヤ・ローマ戦争が始まった。エルサレムはユダヤ反乱軍が手中にしたが、ローマからはヴェスパシアヌスが率いる軍団が派遣され、ユダヤ各地が征服された。AD68年にローマ皇帝ネロが自殺すると、ヴェスパシアヌスは一旦ローマに戻り、AD70年にローマ皇帝に即位した後長男のティトスをユダヤ征討軍司令官としてエルサレムに派遣した。その時、エルサレム防衛軍は約2500人だったが、ローマ軍は総勢8万だったとのこと。ローマ軍は町の西側とオリーブ山とに陣地を構え、次々と城壁を突破してエルサレムを火の海とし、ついにエルサレムは陥落しました。エルサレムの神殿が崩壊したアブの月の9日は、その昔バビロンのネブカデネザルによる神殿崩壊と奇しくも同じ日で、それ以後ユダヤ人はこの日を「神殿崩壊記念日」として国民の喪の日とするようになりました。(以上、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」の記事を参照しました。)

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以上で、AD70年の第二神殿崩壊までを概観しました。 大分長くなってしまいましたので、この先は次の記事にてご紹介します。ここまでを見ても、エルサレムの歴史は、周囲の大国に翻弄された悲惨な時期を何度も経験していることが分かります。エルサレムの遺跡は貴重なものがあまりにもたくさんあります。それぞれがどういう意味を持つのか理解できませんでしたが、少しづつ分かりかけてきました。