Tombs of the Davidic Dynasty(ダビデ王家の墓)

訪問日: Sun. 3 March, 2013

この日の午後は、「ダビデの町」を再度見学した後、ケデロンの谷に出てシロアムの池に行こうと看板を見たら、なんとその上に「TOMBS OF THE DAVIDIC DYNASTY(ダビデ王家の墓)」と書いてあるではありませんか。旧約聖書の列王記や歴代誌には、ユダ王国の代々の王が死ぬと、いつも「ダビデの町の彼の墓に先祖たちといっしょに葬った」と書かれています。その墓がここにあるというので、是非見ようと岩を登って行きました。

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岩の上に登っていくと、岩肌がゴツゴツとしています。

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直線状の切跡があちこちにありますので、石切場の跡だと思われます。後に調べると、これは、後期ローマ時代(AD2世紀)のもので、ローマ人は第二次ユダヤ・ローマ戦争の後エルサレムを占領して町そのものをローマ風に作り替えようとしましたが、そのためにここから切り出した石で廃墟化したエルサレムを再建しようとしたそうです。

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更に先に進むと、岩の中に大きな穴が幾つか掘られていました。これがダビデ王家の墓なのでしょうか?それにしては、なんの飾りもなく見学者も殆んどいません。

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説明書きがありました。

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訳してみますと、


ヴェイユの発掘(ダビデ王家の墓)

ダビデ王家の墓のなぞ

” こうして、ダビデは彼の先祖たちとともに眠り、ダビデの町に葬られた。”(【新改訳改訂第3版】Ⅰ列王 2:10)

”  そのあとに、ベテ・ツル地区の半区の長、アズブクの子ネヘミヤが、ダビデの墓地に面する所と、人工貯水池と、勇士たちの家のところまで修理した。”(【新改訳改訂第3版】ネヘミヤ 3:16)

古代エルサレムの住民は町の中にあったダビデ家の墓のことを何世代にも渡って良く知っていた。その墓についてはネヘミヤ記やフラビウス・ヨセフスの記録やユダヤの口伝律法等に捕囚から帰還後に修復された城壁と共に有名な場所として書かれている。

第二神殿崩壊後はその墓は破壊されその位置も忘れ去られた。中世の伝承ではダビデの墓はシオン山にあるとされた。1913年ロスチャイルド家のエドモンド男爵はダビデの町の中の広い土地を購入し、フランス系ユダヤ人考古学者レイモンド・ヴェイユに発掘調査を依頼した。ヴェイユは岩盤に彫られたいくつかのトンネルを発見し、これらはダビデ家の墓であるとした。

ヴェイユの理論は長い間受け入れられたが、その後発見された多くの第一神殿時代の墓が疑問を投げかけている。


と書かれています。

「最後の晩餐の二階の間」の記事で触れましたが、現在ダビデの墓とされ、ユダヤ人の礼拝の対象になっているのは、ここからずっと西の現在のシオン山にある「二階の間」の下にあります。ダビデはイェブス人のシオンの要害を攻略して「ダビデの町」を作り、その北の丘にソロモンの神殿が建てられ、それ以来、神殿の丘がシオン山と呼ばれるようになったのですが、ユダヤ戦記を書いたヨセフスの記事が誤解を招き、いつしか現在のシオン山が間違ってダビデ時代のシオン山と考えられるようになってしまいました。

つまり、第一神殿時代のシオン山と、現在のシオン山とは別物なのですが、第一次ユダヤ・ローマ戦争後、ローマ軍が徹底的にエルサレムを破壊したため最初のシオン、すなわちダビデの町がどこにあったのかもわからなくなってしまったとのことです。

ここは、場所的には、「ダビデの町」の城壁内にあり、シロアムの池の手前にあるので、先ほどの説明書きの聖書内容(列王記とネヘミヤ記)と一致します。

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近づいてみると、人間が入れるほどの大きな穴が二つありました。フランスの考古学者レイモンド・ヴェイユは第一次大戦前の1913~14年にこの地区を発掘し、ダビデ王家の墓と思われる墓を八箇所発見し、それぞれT1~T8の番号を付けました。その後T9も追加されましたが、もっとも特徴的なのが、下の写真のT1(上の写真では左側)で、人工的に岩の斜面をトンネル状に掘り抜いた洞穴です。

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このダビデの墓については、やはり、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」に詳しい説明がありましたので参照しました。

T1のトンネルの長さは約16m、幅2.4m、開口部の高さ約4m、前方は人工的に破壊されたので構造は不明。奥に入ると奥壁の少し手前の床に遺体か石棺をおくためのくぼみがある。両側の側面には細長い溝が彫られており、ここにはトンネルの上レベルを支える木製の板がはめ込まれていて二段の構造になっていたと思われる。入り口には階段があり、もう一つの入り口に降りていくようになっている。ヴェイユは他の墓も王家の墓と同定し、特にT1をダビデの墓と同定した。

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これが入り口から地下墓室に降りる階段です。

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このヴェイユの説はその後多くの著名な学者に受け入れられましたが、次第に異議を唱える学者が多くなっていきました。代表的なのはイギリスの有名な考古学者ケニヨン女史で、彼女はこのトンネルは水槽だったと言い、ダビデの墓は城外のケデロンの谷にあったと考えました。それは、城壁内に墓があるのはユダヤの律法に反するからというものでした。

また、他の学者は、この墓が聖書時代に特徴的な形をしていないとか、しっくいが使われているのでやはり水槽だとか、更には、ワイン倉庫だったとか、いろいろあって、先の説明書きのように、最近では疑問が多いとされているようです。

しかし、関谷定夫氏は、「ペトロが言ったダビデの墓(碑)はヨセフスが記録しているように極めて立派なものだったに違いない。それが完全に消失してしまうはずがない。やはり、ヴェイユのT1のトンネルの入り口が人工的にひどく削られているところに壮大な記念碑が建てられていたのではないか、と想像している。」と言っています。

さらに、ネットでいろいろ調べてみると、

「Is T1 David’s Tomb?」(T1はダビデ王の墓なのか?)

という記事が見つかりました。これは、アメリカのJeffrey R. Zornという聖書考古学者が2012年に書いたもので、豊富な写真や図を使って、やはり、このT1がダビデの墓であろうと詳しく述べています。

ギホンの泉からシロアムの池に水を導くヒゼキヤトンネルが、短い直線ではなくわざわざ長い円弧状になっているのは、ダビデの墓を迂回したためではないか、とか、聖書時代の墓の形をしていないという意見に対しては、同じようなトンネル構造の墓がBC14頃のハツオルにあったとか、城壁内に王の墓があったのは外敵から守るためであったとか、興味ある内容でした。

いずれにしろ、現在のシオン山にあるダビデの墓が本来のダビデの墓でないことは確かのようです。