Bible Lands Museum(バイブルランド博物館)

訪問日: Mar 4, 2013

マハネ・イェフダ市場を出た後、クネセット(国会議事堂)のある広大な公園の中を南方向へ散歩しながらイスラエル博物館に向かいました。イスラエル博物館はツアーで見学しましたので、食堂で昼食を取った後、道を隔てた向かい側にあるバイブルランド博物館へ行きました。受付でチケットを買うと、「どこから来たのですか?」「どうしてこの博物館を知ったのですか?」などと聞かれました。東洋人は珍しいようです。

きれいな入り口を入ると、発掘された壺や資料が広く明るい展示場にゆったりと展示されていました。

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小さなギャラリーが全部で20室あり、メソポタミア文明から始まってローマ・ビザンチン時代まで、聖書に出てくる国々の文明や文化を表す発掘物や資料が整然と配置されています。

バイブルランド博物館の英語名称は「Bible Lands Museum」です。LandではなくLandsとあるように、イスラエルだけではなく、聖書に書かれた国々すべてに関する博物館で、子供たちの来館者も多く、子供の教育のための楽しいプログラムもたくさん用意されています。催しのできる会場やレストランもあり、バル・ミツバ(男12歳)やバト・ミツバ(女13歳)、すなわちユダヤ人の成人式もここで行うことができるそうです。

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下の模型は、第一神殿時代(紀元前10世紀-6世紀)のエルサレムを表したものです。西の方に町が広がって城壁も伸びていますからヒゼキヤ王の時代のものでしょうか。

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模型の下側(南側)がダビデの町で、中央に見える3段の建物がダビデの宮殿と思われます。

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その上(北側)にソロモンの宮殿があり、一番北(下の図では右)に第一神殿があります。

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下の石柱は、BC950年~750年頃のシリア北部の都市国家グルグムGurgumの首都Marashで出土されたもので、墓の石柱に彫られた浮彫りです。 パンが積まれたテーブルをはさんで麦の穂束と杖を持つ男とカップと糸巻きを持つ女が描かれていますが、死後にも豊かな暮らしを願って作られたものとのこと。

シリア北部の部族国家群は新ヒッタイトと呼ばれますが、その中のアルパデという国は第二列王記やイザヤ書に出てきます。
” ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムやヘナやイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。”(Ⅱ列王 18:34)

これらの国々は、後にアッシリアに滅ぼされました。

後方に子供たちが座っているのが見えますが、課外授業でしょうか、スタッフの説明を聞いています。

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下の石柱は、雄牛の上に立っているその地域の神と、その前に立つ戦士を描いたもので、やはりBC950年~750年頃のもの。シリア北部のTil Barsipあたりで発掘されたもの。Til BarsipもMarashと同じくアレッポの近くにある古代遺跡のある町ですが、現在は戦乱の中でどうなっているのでしょうか?

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これは、アッシリア王国のサルゴン2世(在位BC722-705年)の石柱の一部です。BC720年頃に作られたもので、楔形文字で書かれていま す。アッカド語という言語で、これは古代アッシリア人やカルデヤ人が話していた言語だそうです。カルデヤのウルから出てきたアブラハムもこの言葉を話していたのでしょうか。

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内容は、反乱軍を制圧した時に、その反乱兵に対する処遇について書かれているとのこと。英語の説明文を載せておきます。それにしても、古代の楔形文字をよく解読したものです。

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下の写真はアッシリア王セナケリブ(在位BC705-689)のニネベの豪華な宮殿の模型です。セナケリブ王はBC701年にユダヤに遠征し、城壁のある多くの町を征服しました。この模型の奥にある小部屋の壁には、ラキシュを包囲して攻め落としたときの様子を描いた有名な壁画が飾られていました。この戦いの様子は第二列王記18章に書かれています。(テル・ラキシュの訪問記参照)

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上の宮殿の模型は下の平面図の赤枠部分です。

セナケリブ王の軍勢は、ラキシュ攻略後、ユダヤ王国の首都エルサレムに迫って包囲しましたが、第二列王記19章やイザヤ書37章に書かれているように、この時は、主の使いが出て行ってアッシリアの陣営の18万5千人を打ち殺しました。セナケリブはエルサレムを立ち去ってニネベに住みました。

” 【主】の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。” (イザヤ書37:36-37)

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これもセナケリブ王の宮殿の壁に飾られていた浮き彫りです。BC700年頃のもの。レバノンでの戦闘シーンとのことで、セナケリブ王の3回目の西方遠征におけるアッシリアの兵士を描いたもの。ヘルメットには羽根飾りがついているそうです。

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下の写真もアッシリアの兵士を描いた石板。建物の土台部分にあったものとか。花飾りのついたヘルメットを被り、槍と盾を持ち、矢筒を背負っていま す。北シリアのアレッポ近郊、アイン・アルアラブ近くのArslan Tashという遺跡で発掘されたものとか。このあたりも現在ISの支配下になっているところです。

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アッシリア王国は、アシュルバニバル王の死後衰退し、BC612年には新バビロニアの攻撃を受けて首都ニネベが陥落、BC609年に滅亡し、新バビロニア王国の時代になりました。

下の写真は、新バビロニア王国の首都、かの有名なバビロンの町の模型です。第2代の王ネブカデネザルによってユダヤ王国は滅ぼされ、多くのユダヤ人が捕囚されてこの町に連れて行かれました。バビロンはBC600年代の世界的な大都会で、有名なイシュタル門や空中庭園もネブカデネザル王が作りました。

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下の石板は、紀元前800-700年頃のもので、Urartuで発掘されたものとあります。Urartuというのを少し調べてみると、現在のアルメニアあたりで繁栄した古代の王国で、アッシリアの侵略に苦しめられていましたがついにBC585年にメディアに滅ぼされました。その民族はその後のアルメニア王国に連なっていると言われています。Urartuとは、あの「ノアの箱舟」が大洪水の後に流れ着いたとされるアララト山を意味するそうです。

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石板上の浮彫りがはっきり見えないので線画が書かれていました。それによりますと、

「王座についた王がカップを持ちながら、2人の廷臣から貢物を受け取っている。後ろには彼の従者が立っている。」 と説明されています。

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下の浮彫りの断片に描かれているのは、アッシリアのセナケリブ王の遠征の後、バビロニアから追放されたカルデア人家族です。これはニネベにあるセナケリブの宮殿で発掘されたもので、石膏(モスル大理石)製で、およそBC700-695年頃のもの。

”追放された家族は、魚の豊富な川沿いのナツメヤシの林を通り抜けています。中心には、1本の太いヤシの幹が見え、女性と子供は、若い男の子にひかれた馬に乗っています。家族の前には、肩に袋をかけてもつ女性が歩いています。”

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また、たくさんの壺が展示されていました。下の左側の壺の説明は、

”古代ギリシャのアテネ風の黒絵式(black-figure)陶器の両取っ手付壺。ギリシャ神話の「ネメアのライオン」と戦うヘラクレスが描かれています。彼は大股で歩いて行ってライオンの頭をつかみ、右手でその上あごをつかみ左手で口の端を引きます。その右側では英雄ヘラクレスの後援者アテナイが右手で槍を握り、右へ歩いて行きつつ振り返って見ています。左には、ヘラクレスの仲間が彼の弓とこん棒を持って立っています。”

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こちらは、レキュトスと呼ばれる古代ギリシャ様式の壺で、油、特にオリーブ油を入れた陶器の壺で、主に未婚男性の遺体に油を塗油するのに使われたものとか。これらはアテネ風赤絵式のもの。
手前左は細い柱の右に立つ髭の男でBC5世紀頃のもの、中央はBC460-450年頃のもの、その下にあるのは、羽根を伸ばして飛び立つペガサスでBC5世紀頃のものです。

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その他にもたくさんの展示物がありましたが、当時は、知識不足で十分理解できず一部の写真しか撮れませんでした。是非、再度訪問したいところです。

この博物館の設立には、やはりドラマがありました。博物館のホームページには創設者エリー・ボロウスキー博士について次のように紹介されています。以下はその概略です。

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“創設者とその夢”

Dr. Elie Borowski (1913-2003)
Bible Lands Museum Jerusalemの創設者

彼は、ポーランドのワルシャワで生まれ、有名なユダヤ人学校で学んだ後、さらなる知識を求めて、ヨーロッパの幾つかの有名な大学や研究機関で学び研究しました。しかし、第二次世界大戦が勃発する直前の1939年8月に、彼はフランスでナチスに対するレジスタンス運動に加わりましたがスイスに抑留されました。ホロコーストによってすべてを破壊された後は、彼には戦前に得た教育だけが残りました。彼はその知識を使って聖書の時代の古代の芸術の専門家になろうと思いました。

50年以上にわたって、彼は、聖書時代の文化と文明を反映している古代中東の芸術品を集め貴重なコレクションを作成しました。そして、1975年に「天国への階段」と名付けたカタログを出版し、古代中東芸術品のディーラーとして成功し、ヨーロッパとカナダで展示会を行いました。

その後、コレクションはさらに増えていき、彼の夢がはっきりしてきました。それは、すべての信仰の人々が聖書に関わる歴史について学ぶことのできる世界的な学習施設・展示施設を作ることでした。この考えは、ユダヤ人もアラブ人もクリスチャンも同じルーツを持つことを理解し、将来の世代を勇気づける方法として素晴らしいものになると思われましたが、多くの障害があり、なかなか具体化できませんでした。

1982年にエリーはイスラエル博物館のある集まりに出席していましたが、そこで力強い協力者で最愛の伴侶となるバーチャとの奇跡的な出会いがありました。バーチャはニューヨーク在住のユダヤ人ビジネスウーマンで2人の娘を持つシングルマザーであり、極貧の幼少時代を過ごしましたが、その後不動産ビジネスで成功していました。バーチャはエリーのコレクションに感動し、一晩カタログを借りてホテルで夜通し眺めました。それらの収集物がカナダのトロントの博物館に収められる計画だと聞いた彼女は、これらの貴重なコレクションはエルサレムにあるべきだと直感し、彼にエルサレムに博物館を作るように説得しました。しかし、エリーは大反対しました。それは、イスラエルのある博物館から、コレクションを収める場合はそれらをばらばらにして展示すると言われていたからでした。

結局、エリーは彼女の強い情熱に押されて納得しました。バーチャは今までの仕事をやめて彼と結婚し、二人はクネセット(国会議事堂)の見える場所に新居を構え、自分たちの博物館設立の準備を始めました。二人は一緒になって多くの障害を克服し、バーチャは世界各国にいた裕福な友人たちから支援を受け、また、エルサレムの前市長の理解と援助も得られ、ついに、10年後の1992年5月11日にエルサレムの博物館地区の中心に念願の博物館を設立しました。バーチャは館長を務め、二人の娘たちもスタッフとして一生懸命働きました。現在は娘の一人、Ms. Amanda Weissが館長を務めています。 今では、聖書の時代の歴史を専門とする世界唯一の博物館として世界的に名声を博しており、大人や学童のために多くのイベントや革新的な教育プログラムを提供しています。

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上記のMs. Batya Borowskiについては、2010年5月14日のThe Jerusalem Postの記事 ”A love story of biblical proportions”に詳しく書かれています。

Bible Lands Museum Jerusalemのホームページを見ると、大人や子供向けの教育プログラムがたくさん用意されています。先日見た時は、「テル・ラキシュへのStudy Trip」というのがあって、現在発掘に従事している大学教授から最新の発掘状況のお話が聞けるというもので、私も是非行ってみたいと思いましたが、ヘブライ語での説明になると理解できません。いずれ、ヘブライ語も学びたいものです。