The Western Wall Tunnels(西壁トンネル)
訪問日: 26 Feb 2013
この日最高のハイライトである西壁トンネルのツアーは、夜の6時から始まりました。大変人気のあるツアーで、予約が必要なのですが半年以上前に予約しないと取れないとか。試しにWebサイトで現在の予約状況を見てみたら、本日2月11日現在で可能なのは9ヶ月先の11月2日からでした。
夕方6時になっても、西壁の「嘆きの壁」の前ではたくさんの人々が祈っていました。私達は、左側手前にある西壁トンネルツアーの入口へ向かいました。西壁トンネルについても、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」に詳しく説明がありましたので、それを参照しながら撮影してきた写真を振り返ってみます。
西壁トンネルとは、ヘロデ大王の時代のまま長い間地中に埋もれていた神殿の西壁に沿って掘られたトンネルのことです。1967年の第3次中東戦争(六日戦争)で勝利したイスラエル政府は、長い間念願であった神殿の西壁全体を明らかにすることが可能になり、宗教省を通して大規模な発掘を実施しました。1985年に一応の発掘作業が完了し、1996年から一般公開されました。嘆きの壁の北端西側から入って西壁まで東に進み、そこから西壁に沿って北へ進んで、ヴィア・ドロローサの始点近くのエッケ・ホモ教会の地下にあるストルシオン・プールまで続く約500mの地下道で、2000年前のヘロデ大王時代が中心ですが、ハスモン朝時代、ビザンチン時代、十字軍時代、などの遺跡も見ることの出来るタイムトンネルです。下の図は、ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の地図ですが、青い矢印が私達の歩いた行程を示しています。
ツアーの標準所要時間は1時間15分とのこと。午前7時からイブニングまで、かなり長い時間オープンしています。
警備体制もしっかりされていました。最初にムスリム地区に北出口をオープンした時は、イスラム教の学校の地下を通るということで、イスラム教徒による暴動が数週間続き、80人が殺されたそうです。その後、出口の手前の地下にあるストルスィオン・プールに壁を造り、学校の地下を通らずにヴィア・ドロローサに出られるようにして解決したということです。
入ったすぐのところにあった看板には、「ローマ・ビザンチン時代(AD2-4世紀)の敷石の道路。この道路はダマスカス門から南に向かい糞門まで延びている。」と書かれていました。AD6世紀のマデバ地図にもあった第二カルドーのことと思われます。(Cardo参照)
この下の床がローマ・ビザンチン時代のもののようです。
更に、ここはユダヤ教の祈りの場でもあるため、男性は帽子をかぶらねばなりません。私達はツアー会社の帽子をかぶっていましたので不要でしたが、無い人はここで白い帽子を借ります。
入口から入ってすぐのところに、The Secret Passage(秘密の通路)という看板がありました。「The street of the chain(鎖の道路?)の拡幅部分を支えるために作られた橋脚として13世紀~14世紀頃に作られたアーチ状の通路」と書かれています。現在のエルサレムの地図にもThe street of the chainという名前の道路があり、ユダヤ人地区の北端を西から東へウィルソンアーチのある西壁まで通っています。
”The Secret Passage”という名前は、西壁を探検した英国の考古学者チャールズ・ウォレンが呼んだもので、15世紀のアラブ人歴史家ムジール・エディンの記述によ るそうです。それによると、これは、ダビデ王が自分の王宮(ダビデの塔のあるところとされていた)から人目を避けてこっそり神殿の彼の祈りの場所に通った通路とされていました。15世紀頃は現在とは随分違う解釈がされていたようです。
そこを抜けると、西壁につながるウィルソン・アーチが見えてきます。
また、入口のところには、次のような説明もありました。
「大きな橋の正面: 神殿の丘と上町 (現在のユダヤ人地区)とを結ぶ橋の南面は7つのアーチで支えられていた。この橋の高さは神殿の丘の高さと同じであった。最初に建てられたのは第2神殿時代(ヘ ロデの時代)で、人々のための通路として使われたと同時に、神殿のための水を引きこむ導水路としても機能していた。しかし、第2神殿がローマ軍によって破壊さ れた時(AD70年)にこの橋も壊された。2世紀になって、エルサレムが異教の都市アエリア・カピトリーナに変えられた時、この橋も再建された。」
と書かれています。つまり、ウィルソンアーチが支える陸橋を説明しています。「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」では、この橋の再建は、AD7ー8世紀頃のイスラム時代になってやっと完成したと書かれていて、どちらが正しいのか良く分かりません。
ウィルソン・アーチの様子が良く分かる図が壁に掛けられていました。現在の地面の高さは、当時の地面の高さよりも約6メートル高くなっています。トンネルツアーでは、ここから西壁に沿って北の方に(この図では奥の方に)進んで行きます。
当時の様子を、エルサレム1/50モデルで確認してみます。上の図と比べて見てください。西壁の下は谷になっていて、北に行くに従って登り勾配になります。ですから、ずーっと北に進むと当時の地面の岩盤の上を直接歩けるようになります。
ウィルソン・アーチの北側に、天井が十字形をした奇妙なホールがありました。これは、キリスト教とは関係なく、アイユーブ朝(AD1187~1350年)かマルムーク朝(AD1250~1519年)に建てられたイスラム教の神学校の基礎構造だそうです。
その部分は、まだ発掘工事中のようでした。
ホールの中央には、エルサレム神殿のモデルが置かれており、西壁の外側部分が上下して、当時と今の様子を比べることができます。下の写真の状態は当時(2000年前)の様子。
そして、次の写真が現在の様子になったところです。谷が埋められて地面の高さが高くなり、多くの建物でごちゃごちゃしています。
このホールの東側を出ると神殿の西壁にぶつかります。
この壁の下側に、アヴィガドがマスター・コース(Master Course (巨石列層)と呼んだ巨石がありました。非常に大きくて、一番大きなものは、幅12.5m、高さ3.5m、奥行き4mで重さは約600トンもあるそうです。全部で4つ並んでいて合計の幅は33mだそうです。
これらの巨石の意味は何なのでしょうか? 西壁トンネルの発掘を指揮したイスラエルの考古学者ダン・バハトによれば、西壁のこの部分の奥にあたる神殿の山の下に、この巨石層によって守られた神殿と祭司たちのための大きな地下倉庫があるということで、音響測深やレーダー探査装置で確認できたということです。
600トンもある巨大な石が、積み上げられたそれより小さい四角い石の上に水平にのせられていて、石の間の継ぎ目は全く隙間がないように正確に合わされています。どのようにしてこの重い巨石を運んで持ち上げたのでしょうか? 2000年も昔にこのような技術があったとは驚きです。
その巨石列のすぐ北に、下のような看板がありました。
「神殿の丘へ入るための門: ウォレン門と呼ばれるこの門は西壁にある4つの門のうちの一つである。イスラム時代初期(AD638-1099)に門の内部のスペースはエルサレムのユダヤ人のためのメイン・シナゴーグとして使われた。そこは神殿の至聖所に一番近い場所であったからである。神殿の丘の下にあったため、洞穴(Cave)と呼ばれた。その後、神殿の丘に入る訪問者のための大きな水槽に変えられた。ウォレンが発見したのでウォレン門と名付けられた。」とあります。
この看板の後ろが閉ざされたウォレン門です。
つまり、この門は、ユダヤ教徒が神殿に入れなくなった後の、神殿に代わる祈りの場所としてのシナゴーグの入り口だったのです。
「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」による説明を付け加えますと、初期イスラム時代の終わるAD1099年に、ユダヤ人は侵攻してきた十字軍に大量虐殺されたり追放されたりしました。その後、1244年の十字軍の最終敗北のあと、ユダヤ人はエルサレムに再定住するようになりましたが、その時にはシナゴーグは水槽に変えられていました。祈る場所のなくなったユダヤ人は、それ以来、西壁のずっと南側の「嘆きの壁」を祈りの場所としたということです。
そのすぐ先で、女性が座っているのが見えました。
ここは、神殿の丘にある「岩のドーム」、つまり、かってユダヤ教の至聖所があり、契約の箱が置かれていた場所の真西に当たるところです。ユダヤの伝承によれば、この岩の中には神が臨在し世界を創造された世界の中心ともいうべき「基礎石」The foundation stone (ヘブライ語でエヴェン・シェティヤーEven Ha-Shtiya)があると信じられてきました。この壁の向こう側にその「基礎石」があるということで、今でも多くのユダヤ人がここで祈りを捧げています。
この日は、二人の女性がこの壁の前で静かに祈っていました。
そこから先が本格的な西壁トンネル、西壁沿いに作られた細い通路をひたすら進みます。右側に見えるのがヘロデ大王の作った神殿の壁で、ふちが削られて枠取りがされたような、ヘロデ大王の建築に特徴的に見られる削り石が積み重ねられています。当時の地面よりは、まだ大分高い位置を歩いているのでまだ土は見えません。
ところどころで足元がガラス張りになって下が覗けるようになっています。
覗いてみると、下の方に見えるのは、中世に作られた貯水槽とのこと。ずーっと下の方まで、ヘロデ大王特有の枠取りされた西壁の削り石が見えます。
さらに北に進んだところに、看板がありました。
「ハスモン時代(BC152年-BC37年)の階段: 貯水槽へ降るための階段の遺跡。(これらの階段は、ヘロデ時代の街路を造るために壊された)」とあります。
このあたりから、ヘロデ時代の街路を直接歩けます。ヘロデ時代の街路は北に進むにつれて高くなっているので、しばらく歩いてやっと同じ高さのところに来たわけです。
下の写真は大きな石でできたガードレールで、雨を流すための側溝に人が落ちないようにするために道の両側に備えられていたそうです。
ヘロデの街路の北端に来ました。左側に2本の石の円柱が並んでいます。このあたりに市場があったことを示しているそうです。
「ヘロデ時代の円柱: 街路が作られた時、2本の円柱が立てられた。街路沿いの屋根を支える列柱か、街路に隣接した柱廊のある広場であった。」
その下の敷石は、2000年前のヘロデ時代のもので、イエス様が歩かれた可能性は高いと思われます。
このヘロデ時代の広場の右側に見える西壁は、石を積んだのではなく、神殿の山の岩盤を直接削って溝を彫り、石を積んだように見せかけています。
ヘロデ時代の街路の終点には古代の石切り場があって、まだ採掘中と思われる状態の石が置かれています。ここで切り出された石の寸法は高さ1.2mで、西壁に使われている石の平均的高さに一致しているそうです。ヘロデの街路が突然この石切り場で終わっているということは、工事が未完成だったことを意味しており、ヘロデがBC4年に死んだ時に工事は一時中断され、ヘロデの死後になって完成したことを意味しているとのことです。
この場所で短いビデオを上映していました。石切り場から大きな石がどのように運ばれたかを説明しています。
切られた石は、木の車に取り付けられ、転がして運ばれました。
プーリーを使って、大きな力を働かせ、木のコロに載せ、
牛に引かせて運び上げました。
石を積み上げたあとは、周りを削って、ヘロデ大王特有の枠取りをしました。
その先には、ハスモン時代に造られた狭い水路があり、そこを通り抜けると、水の溜まった地下貯水池がありました。
これは、ヴィア・ドロローサにあるエッケ・ホモ教会(ノートル・ダム・ド・シオン女子修道院)の地下で見たストルスィオン・プールにつながっているそうで す。当時は幅50m、長さ150~200m、深さ18mの大きなものだったそうですが、現在のプールは2世紀のハドリアヌス帝の時代に改築され、アーチ状 の天井で覆われて、その上に敷石の床が作られたということです。
水の底に土器のかけらのようなものが見えましたが、これらも古代の遺跡でしょうか?
これでトンネル・ウォークが終了となりましたが、もう夜遅くなっていて出口のヴィア・ドロローサで出ると物騒だということで、来た道を引き返し、嘆きの壁の広場に戻りました。夜の7時を過ぎていましたが、まだ多くの人々が壁の前で祈っていました。空には、満月が明るく輝いていました。
ユダヤ人はローマ時代にエルサレムを追われましたが、2000年後になって、埋もれていたエルサレムの聖所をそのまま発掘できたという奇蹟に驚かされました。まさに、旧約聖書に書かれた『主は生きておられる。』という言葉のあかしのようです。
これでこの日の予定はすべて終了、長い一日でした。
下の地図を最大限に拡大し、左上の人形をクリックしたまま中央のマークのところに移動すると写真(ストリート・ビュー)が現われますので、そのあたりを、行ったり来たりしてみると、何と、西壁トンネルの360度写真が見られます!
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