Cardo(カルドー)

訪問日: 26 Feb 2013

エルサレムの旧市街のほぼ真ん中にあるカルドー(Cardo)と呼ばれる古い道路の遺跡を訪れました。
カルドー(Cardo)とは、ローマ帝国が支配した都市の中央を縦に走る大通りのことです。横に走るデクマヌスと呼ばれる大通りと交差しています。ツィポリの遺跡を見学した時にも典型的なローマ時代のものがありました(Zippori)。ローマ時代といっても、エルサレムの場合は、どの年代かによって町の様子が随分違っています。ローマ皇帝ハドリアヌスがAD132~135年の第二次ユダヤ反乱(バル・コクバの反乱)を征圧しましたが、その後、エルサレムからユダヤ人とユダヤ教が一掃され、廃墟となったエルサレムの町はハドリアヌス帝によって「アエリア・カピトリーナ」と名付けられたローマの植民市に作り変えられました。Cardoはこの時に北半分が作られ、ビザンチン時代のユスティニアヌス帝のときに南に拡張されて完成しました。

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このあたりは、ユダヤ人地区で、美術品店が多く立ち並んだ落ち着いた商店街ですが、ところどころに覗き穴のようなものがあります。

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その穴を覗くと、AD2世紀頃に作られたカルドの石が見え、更にその下には、ハスモン朝時代の遺跡とか、第一神殿時代の遺跡とか、はっきり見えませんが、まさにイスラエル4000年の歴史が眠っています。エルサレムのヤッフォ門近くに、「タイム・エレベーター」という歴史を立体的に見せる教育用の映画館がありますが、この穴は、まさに、4000年前まで下る「タイム・トンネル」です。

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発掘されたカルドーの遺跡が見える場所に来ました。ここは、ビルの地下にあります。黒く四角い柱はビルを支えるための現代の柱で、右側に見える円柱がカルドーの両端に並んで立てられたものです。左側の柵は現在の道路上にあるもので、地面の高さの違いが良く分かります。

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カルドーの両端に並んでいた柱の上には、両側の壁との間に木の棒が渡されて屋根が作られています。当時は、現在のダマスコ門からシオン門あたりまで、まっすぐに伸びた大通りの両側にこれらの石の柱が並び、その両端には商店が並び屋根つきの通路が用意されていて、雨に濡れずに歩けるようになっていました。

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カルドーの敷石の道路は、1967年の6日戦争後に、これも「The Broad Wall(広壁)」と同じく、ヘブライ大学のアヴィガド教授によって発掘されました。

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ビルの中のカルドーの遺跡を抜けて、狭いトンネルのような通路へ入ります。

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そこを抜けると、屋外にある遺跡を見ることが出来ます。発掘されているのは、道の半分だけなので、実際には、この倍以上の幅の広い道だったそうです。

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右側の石の壁の手前には、いろいろな商店がならんでいたものと思われます。

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この日のツアーでは、朝早くから歩き詰めで皆さん少しお疲れの様子。しかし、まだ、この日最後のハイライトともいうべき「西壁トンネル」の見学が18:00より始まりますので、しばし休憩です。

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カルドーの途中の壁に、紀元6世紀頃のエルサレムを描いた地図がありました。有名な「マダバ地図」のコピーです。「マダバ地図」とは、ヨルダンのマダバにある6世紀ごろの教会の床にモザイクで描かれたエルサレムの鳥瞰図のことで、当時のエルサレムの様子をよく表わしたものとして有名です。特にキリスト教関係の建物や位置関係が良く分かります。

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エルサレムはハドリアヌス帝によって、AD135年のバル・コクバの反乱鎮圧後に、エルサレムは「アエリア・カピトリーナ」というローマの植民市に作り変えられました。その象徴が主門となる北門(現在のダマスカス門)で、門を入ると石を敷き詰めた大きな広場があって、その中央に高い円柱があり、その上には、ハドリアヌスの像が置かれていたと言われています。広場を取り囲む列柱の外側には店が並び、カルドーは、その広場からまっすぐ南に延びて、当初は現在の聖墳墓教会の場所に建てられた異教の神殿のある南の広場まで通っていました。また、この地図にあるように、第二カルドーもあって、「神殿の丘」の方に走っていたそうで、第二カルドーの遺跡の断片も各所で見つかっているそうです。

下の図は、当時の北門(現在のダマスコ門あたり、当時はステファノ門とも呼ばれた)の想像図です。「図説聖書の大地(ロバータ・L・ハリス著)」より。 中央上に向かう大通りが第一カルドーで、左上の大通りが第二カルドーです。

カルド北門

AD313年にキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝により、ハドリアヌス帝の建てた異教の神殿はすべて取り壊され、多くの教会が建てられました。6世紀のユスティニアヌス帝は第一カルドーを南に延長し、聖墳墓教会と自分の建てたネア教会とをこの道路で結びました。マダバ地図には、第一カルドーと第二カルドー、大きなドーム屋根の聖墳墓教会、聖アンナ教会、ハギア・シオン(マリア永眠教会)、ネア教会、などが大きく描かれており、カルドーの両側の列柱の上に架けられた屋根のための横木もはっきりと描かれています。「エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」によれば、右端の小さな家は「二階の間」だそうです。

下の図は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」に載っていたビザンチン時代のエルサレムの地図です。上の地図と同じ方向になるよう横にしてみました。比べて見てください。

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ネア教会という名は聞いたことがありませんでしたが、当時はパレスチナ地方最大の教会だったそうです。下の図および説明は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」より。

ネア教会復元図

ネア教会というのは、ビザンチン時代の最盛期AD543年にユスティニアヌス帝によって建てられた巨大な教会で、正式には「新しい神の母聖マリアの教会」という名ですが、「新しい」という意味の「ネア」をとってネア教会と呼ばれていました。1970年の発掘では重さ5トン~15トンの大きな切り石から成るこの教会の壁が発見されたとのことです。しかし、現在は、その教会の遺跡はほとんど残っていません。614年にペルシャ軍がエルサレムを占領したときに破壊され、その石はその後のイスラムの建造物に使われたと考えられているそうです。

その後、カルドーは徐々に使用されなくなり、壊されて地中に埋もれていきましたが、十字軍時代にはその上に商店街が作られました。現在では、南側のユダヤ人街では上品な美術品店が並び、北側のアラブ人街では種々の小さな店がぎっしり並んでダマスカス門につながるバザールとなっています。

下の地図を最大限に拡大し、左上の人形をクリックしたまま中央のマークのところに移動すると写真(ストリート・ビュー)が現われますので、そのあたりを、行ったり来たりしてみると見つかります。