Jericho(エリコ)

訪問日:23 Feb 2013

ヨルダン川の洗礼場から西へ、その昔、ヨシュアが約束の地に入ったのと同じであろう経路を通って、エリコに向かいました。エリコは、パレスチナ自治区にあるので、イスラエル国籍を持つ恭仁子さんは入れません。それで、入り口のサービスエリアでご主人と共に待っていてもらい、ここはパレスチナ人のガイドさんと交代となりました。

道路沿いのサービスエリアには広い駐車場があって、お土産屋とか休憩所があり、大きなやしの木の下には駱駝が立っていました。

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近くにもう一匹の駱駝がいて、その横に主人が座っていました。お客が来ないので、駱駝もご主人も退屈そうです。

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エリコに入る道には検問所がありましたが、私たちのバスは運転手がアラブ系ユダヤ人だということで、そのまま入ることができ、車内での検査もありませんでした。

私達はまず、現在のエリコ市街に入りました。エリコは砂漠の中のオアシスの町で、世界最古(一万年以上前)の町、また、世界で最も低い町(海抜マイナス260m)です。現在は、パレスチナ自治区の中にある人口2万人弱のアラブ人の町で、大通り沿いにはいろいろな店が並んでいました。下の写真はおいしそうなパン屋、男の子が一生懸命働いていましたが、バスの中から大勢がカメラを向けたので、こぶしを振り上げて怒りだしました。

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八百屋です。エリコには泉があって水が豊富なためか、野菜や果物がたくさん売られていました。

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これはお菓子屋。イスラムの人々が多いのですが、おもちゃを持つ子供は世界共通ですね。

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日本のJICA(国際協力機構)の看板を見かけました。エリコ市の下水道整備をODAの国際援助として進めているようです。日本政府を含め多くの国がパレスチナ自治区に対し、かなりの援助をしているようです。

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市の中心部の一角に大きな木がありました。これが、イエス様が通るのを見ようとしてザアカイが登ったと言われる「イチジク桑の木(sycamore tree)」です。2000年前のできごとなので、本当にこの木なのかどうか?しかし、これを見て「いちじく桑」というのがどういう木なのか分かりました。登るのにはちょうど良い形をしています。

(ルカ9:1-6)

”それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。”

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エリコでの最大の見どころ、「テル・エッ・スルタン(Tell Es-Sultan)」に着きました。ここは、一万年前から人が住んでいて城壁があり、世界で最も古い町と言われています。23層のテル(遺跡が層になった丘)で、侵略者に征服されたり地震があったりで、何度も破壊と再建が繰り返されて層になりました。旧約聖書のヨシュア記の舞台もここだと言われていますが、いろいろな論争があるようです。これについては後で紹介します。

全体図が描かれた看板です。(クリックすると大きくなります。)

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最初に、初期青銅器と言われる紀元前3000年から2350年頃の住居跡を見ました。

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これが実際の遺跡です。やはり5000年も経つと崩れてぼんやりしている感じです。

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壁は日干しレンガで作られていました。発掘後何年も時が経っているので、かなり風化しています。

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説明は、地元のガイドのアハメドさん。熱心に説明してくれましたが、英語だったこともあって、なかなか理解できませんでした。やはり恭仁子さんの説明は素晴らしいですね。

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新石器時代(紀元前8500-7500年)の巨大な石の塔です。1950年代にキャスリーン・ケニヨンによって発掘されました。高さ8m、直径8mの大きなもの。内部には上まで通じる階段があります。何のために作られたかは不明で、周囲に埋葬関係の遺品はなかったのでお墓ではないとのこと、宗教儀式のためとか、天文学のためとか、民衆に力を示すためのものとか、いろいろな説があるようです。

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これも、壁の跡のようなのですが、大分風化していて良く分かりません。

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これは初期青銅器時代(紀元前2450-2350年頃)の住居の跡とのこと。

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下の写真の手前にあるのは、中期青銅器時代Ⅱ(1800-1650BC)に建てられた四角い大きな塔を持つ建物の跡です。その後ろの壁は、中期青銅器時代Ⅲ(1650-1550BC)に建てられた石の保持壁で、この上に日干しレンガの城壁が建っていたものと思われます。その城壁の内側も上り坂になっていて、その上にもう一つの日干しレンガの城壁があったとのこと、上と下に2重に城壁があったわけです。

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城壁の石の保持壁を横から見たところ。

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エリコの城壁というと、旧約聖書のに書かれているヨシュアのエリコ攻略物語を思い出します。エリコは、イスラエルの民がエジプトを脱出してから40年間砂漠を放浪し、やっとヨルダン川を渡って約束の地に入り、最初に勝ち取った町です。

(ヨシュア記6:1-25)

”エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」
(中略・・・・・・ヨシュアとその民は、そのとおりして7日目に7度町を回り終えた。・・・・・・・・)
そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。”

明石牧師のイスラエル旅行記を読んで、ヨシュアの攻略が本当にここで起こったのかどうかの論争があることを知り、ネットで調べてみると面白い記事がたくさんありました。それらを私なりに整理してみました。

  1. 聖書の記述から推定すると、ヨシュアがエリコを攻略したのは紀元前1400年頃になる。
  2. 1930-1936年に発掘調査を行ったイギリスの考古学者ジョン・ガースタングは、聖書の記述に合致する壊れた城壁と火災で焦げた跡を見つけ、それがヨシュアがエリコを攻略した証拠だとした。
  3. しかし、1950年代にイギリスの女性考古学者キャスリーン・ケニヨンは、より科学的な方法で発掘調査を行い、ガースタンクの発見した城壁はBC1550 年のものでヨシュアが来る150年前にヒクソスにより破壊されたものであり、BC1400年頃にヨシュアが来た時には、そのあたりには城壁もなく誰も住んでいなかったと主張し、聖書の記述と考古学の研究結果とは矛盾があるとした。この説はしばらく考古学の定説となった。しかし、ケニヨンは1978年に死亡したので、彼女がどのようにしてこの結論に至ったのかを記す詳細な論文は出されていない。
  4. 1990年にアメリカの考古学者ブライアント・ウッド(Bryant G. Wood)は、キャスリーン・ケニヨンの説に反論した。城壁付近の土器の形状や炭素による年代測定などでよく調べると1400年頃と推定でき、ガースタンクやケニヨンの発掘記録を詳細に検証すると、エリコの遺跡は聖書の記述どおりであると考えられ、また、エリコがヒクソスに侵略されたという証拠はない、という説を展開している。エリコの城壁が崩れたのは、このあたりで頻繁に起こる地震によるもので、崩れたところからヨシュア達が上っていき町に火をつけたのではないかとしている。

次の記事に詳しく書かれています。

「Did the Israelites Conquer Jericho? A New Look at the Archaeological Evidence」 2008 by Bryant G.WooD PhD

次の絵が、この記事に書かれているヨシュア達が城壁の周りを回る様子です。

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ヨシュアは、エリコを攻める前に、2人の斥候をエリコの町に偵察に行かせました。その時、エリコの王に見つかりそうになったのですが、遊女ラハブは彼らをかくまって逃がしてくれました。

ヨシュア記2:15-16には、” そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。彼女は彼らに言った。「追っ手に出会わないように、あなたがたは山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。それから帰って行かれたらよいでしょう。」”とあります。

「ラハブは城壁の中に住んでいた」とあり、窓には外から見えるように赤いひもを結び付けておいたとありますから、恐らく、ラハブの家は外側の城壁の内側に、壁と一体となって作られていたものと思われます。ラハブの信仰により、彼女はイエス・キリストの系図の中に入れられました。

ブライアント・ウッドが想定したテル・エッスルタンの当時の地図。

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下の写真は、エリシャの泉です。現在はテルを囲む塀の外側にありますが、上の地図を見ると当時は城壁の中にあったことが分かります。

この日は多くのアフリカ系の人がいて、なにやら儀式をしていました。エリシャの泉と言われるのは、第二列王記2:19ー22によります。

”この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」こうして、水は良くなり、今日に至っている。”

この水は大変きれいで、実際に飲むことができました。

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この遺跡の手前から誘惑の山の入り口まで、ロープウェイが走っています。イエス様が荒野で悪魔の誘惑にあったところです。

(マタイ4:8-10)

“今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」”

誘惑の山の壁に張り付いた建物は、ギリシャ正教の修道院です。

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休憩の後、エリコを後にして恭仁子さんとご主人の待つ90号線のサービスエリアへ戻りました。DSCN1338rc

サービスエリアにいた駱駝には親子連れが乗って楽しんでいました。

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Tell Es-Sultan
テル・エッ・スルタン
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