Tel Hazor(テル・ハツォル)
訪問日:21 Feb 2013
テル・ハツォルは、イスラエルのテル(丘状遺跡)で最大のものだそうです。21層あるとのこと(テル・メギドは25層)。交通の要衝であり、肥沃な土地と豊かな泉があったので、古代から発展し、紀元前18世紀頃には「上の町」と「下の町」を合わせて80ヘクタールという広さがあり、人口は約15,000人、紀元前13世紀までパレスチナ最大の都市でした。ハツォルという名前は、マリ文書とかアマルナ書簡など、多くの古代文書にも記述されており、古代のメソポタミアやエジプト、地中海沿岸の国々と密接な関係を持つ王国だったそうです。
これは、「上の町」の北端から「下の町」のあったところを望む写真です。「下の町」は、今はもう緑で覆われて何も見えません。
上の写真は、「下の町への出入り口」から北方の「下の町」方向を見ています。下の町から上の町へ上る大階段と、その途中に四角い基壇が見えます。この基壇は宗教的な目的を持っていたと考えられるとのことです。
下の図は「上の町」の全体図です。
ハツォルは、カナンの王国の中でも中心的な王国でしたが、紀元前13世紀に滅びました。遺跡にも大火災のあとがあるそうです。これは、旧約聖書のヨシュア記11:10-13に書かれた事件と関連しているのではないかと言われてます。
”そのとき、ヨシュアは引き返して、ハツォルを攻め取り、その王を剣で打ち殺した。ハツォルは以前、これらすべての王国の首都だったからである。彼らは、その中のすべての者を剣の刃で打ち、彼らを聖絶した。息のあるものは、何も残さなかった。彼はハツォルを火で焼いた。”(ヨシュア記11:10-11)
私達は、まず、紀元前10世紀にソロモン王が建てたと言われるイスラエル時代の門に向かいました。
荒削りの玄武岩を使った素朴な門です。
門の中にある部屋の跡です。下図のように6室構造をしていました。(「聖書の時代の考古学」より)
入り口の再現図です。
この門は紀元前10世紀にソロモン王が建てたもので、聖書には次のように書かれています。
” ソロモン王は役務者を徴用して次のような事業をした。彼は主の宮と、自分の宮殿、ミロと、エルサレムの城壁、ハツォルとメギドとゲゼルを建設した。” (列王記第一9:15)
更に進んで、紀元前14世紀から13世紀頃に使われたカナン時代の宮殿跡に向かいました。
この宮殿跡には、保護のために大きな屋根が設けられています。
かなり大きな建物(23m x 46m)です。
部屋の入り口に2本の柱があり、中央に王座があって、奥の部屋が祭壇になっているとのことです。
部屋の中の様子。王座の間の壁は大きな切石と日干し煉瓦が使われています。
この四角いものは何かの道具でしょうか?
宮殿の説明と再現図です。
このカナン時代の宮殿が埋もれていた上の層には、イスラエル王国時代の収納庫がありましたが、この宮殿を発掘するに当たり、別のところへ移されて再現されました。下の写真が再現された収納庫の跡です。長方形の敷地の中央に2列の柱が並んでいました。
部屋の隅にオリーブ油の圧搾機が見えます。
移設前の写真を見つけましたので載せておきます。(「聖書の時代の考古学」A. Mazar 著より)左上の方に2列の柱が並んでいるのが、移設前の収納庫の跡です。当時は壁と屋根があって倉庫になっていたとのことです。下の方にはソロモン王国時代の門の跡が見えます。
恭仁子さんがオリーブ絞りの装置の説明をしてくれました。
編んだかごの中にオリーブを入れて石の台の上に置き、棒の端に石のおもりをぶら下げ、てこの原理を使ってかごを押しつぶしてオリーブオイルを搾り出します。オリーブオイルは、石の台に刻まれた溝を伝って下の容器の中に流れ込みます。
最後に、給水施設を見に行きました。これが、入り口の大きな穴です。
メギドでは泉、ベエル・シェバでは雨水を利用した大きな給水施設がありますが、ハツォルは城壁の中で豊かな地下水が発見されたので、それを汲みに行く大きな階段トンネルが作られました。
構造は下図のようになっていて、深さは約40mとのこと。
まず入り口の坂道を降ります。一番下は行き止まりなので、また登って戻らないといけません。
私達は見学者用に作られた鉄の階段を下りますが、古代の石の階段も残っています。古代の階段は恐らく北イスラエル王国のアハブ王が作ったものとのことですが、幅が広く、ロバの両側に2つまたは4つの水がめをつけて汲みに行けるようになっていたということです。
途中の壁には鳩の巣があり、こちらの様子を見ていました。
古代の階段はしっくいで固めてあり、一番底の地下水の池まで続いています。また、雨の水が階段を傷めないように、階段の両脇には溝が彫ってありました。
ここから、斜め下向きのトンネルに入ります。
幅の広いトンネルで、階段が続いています。
地下水のある底の池に着きましたが、真っ暗で良く見えません。
確かに、ここが一番底の地下水の池だと書いてあります。深さは46mで、紀元前9世紀にアハブ王が作ったものとのこと。敵が攻めてきて囲まれても、これは城内にあったので水を汲みにいけました。
しかし、ハツォルの町は、紀元前732年、アッシリアに占領され、破壊されてしまいました。
”イスラエルの王ペカの時代に、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリヤへ捕え移した。” (列王記第二15:29)
その後しばらく、アッシリアの要塞があったりしたそうですが、ハツォルには次第に誰も住まなくなり、そのまま放置されていました。発掘が始まったのは、つい最近の1955年からで、現在もまだ続けられています。
エレミア書49:33には、次のように書かれています。
” ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなり、そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」”
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