Tower of David : Museum of the History of Jerusalem (3 of 3) (ダビデの塔 : エルサレムの歴史博物館 後篇)
訪問日: Sun. 3 March, 2013
後編では、オスマン帝国に占領された時代から、英国統治時代を経て、1948年に奇跡的な独立を果たし、数次に渡る中東戦争を経て、現在に至るまでのエルサレムの変遷をまとめてみました。
* オスマン帝国時代のエルサレム(AD1517-1917)
13世紀末に小アジアに興ったオスマン帝国は1453年にコンスタンチノープルを攻略して東ローマ帝国を滅ぼしました。16世紀になるとエジプトのマルムーク帝国も倒し、シリアと全パレスチナを制圧して1516年にはスルタン・セリム1世がエルサレムに入城しました。(ここでの全パレスチナとは、現在のイスラエルとパレスチナ自治区およびヨルダンを含む地域をさします。)
その後しばらくして、オスマン当局はエルサレムの発展に力を入れるようになり、巡礼の数も人口も増大しました。大きく変化したのは第10代スルタンのスレイ マン1世(1494-1566、壮麗王とも呼ばれる)の時で、彼は廃墟になっていたエルサレムの城壁の再構築を行い、5年かけて1541年に現在の姿に完成させました。下の絵は北の ダマスコ門の建築の様子です。
スレイマンはシタデル(要塞)も修復して町を要塞化し、大きな門を城壁に組み入れるオスマン朝建築様式で多くの美しい門を作りました。
下の図は、1.ライオン門、2.ヘロデ門、3.ダマスカス門、4.ヤッフォ門、5.シオン門、6.糞(ふん)門、を示しています。
オスマン朝下では、ムスリムが最大のコミュニティでしたが、ユダヤ人やキリスト教徒も人頭税を払うことにより被保護民として住んでいました。エルサレムはそれまでで最も繁栄しましたが、スレイマン大王の息子セリム2世(1560-74)の時代からは衰退していきました。
16世紀末にはユダヤ人コミュニティが出来ました。土着のユダヤ人の他にトルコ、北アフリカ、イタリア、西ヨーロッパ、東ヨーロッパなど、世界各地から移ってきたユダヤ人で構成され、18世紀になると3000人弱になっていたそうです。 また、キリスト教徒も世界各地から巡礼に来ました。
19 世紀はエルサレムの歴史の大きな転換点となりました。エジプト知事モハメッド・アリがスルタンに反旗をひるがえし一時的にエルサレムを支配しました。この時、住民の権利が認められて非ムスリムとムスリムの差別規定は撤廃され、社会平等が保証されました。信教の自由も保証され、ユダヤ人は自由に西壁で祈ることができ るようになり、大きなシナゴーグも再建されました。この改革は「恩恵的改革」と呼ばれたそうです。アリの支配は10年間続いてトルコ支配に戻りましたがエルサレムはそれを契機として大きく繁栄していきました。
1938 年にはイギリスが世界で初めてエルサレムに領事館を開設しましたが、他の国々(プロシア(ドイツ)、フランス、アメリカ、オーストリア、ロシア、イタリア、スペ イン、ギリシャ、ペルシャなど)も競うように領事館をオープンしていきました。エルサレムのユダヤ人の大半はさまざまな国の領事の保護下におかれました。
人 口の増加とともに建築活動も活発になり、城壁の外にも住宅が建てられるようになりました。宗教施設は、聖墳墓教会周辺やヴィア・ドロローサ、アルメニア地区に集中的に建てられました。最大のものは1898年に建てられたルーテル救主教会でしたが、この時代に、ギリシャ正教やロシア正教の教会、フランシスコ会のむち打ち教会やエッケホモアーチのあるノートルダム・ド・シオン女子修道院、プロテスタントで最も古いクライスト・チャーチなど、現在見られる多くの教会が建てられていきました。
1850年には郵便業務も始められ、ユダヤ人やキリスト教徒は郵便を利用してヨーロッパの同胞と連絡を取り合い、郵便による送金も行われたとのことです。さらに、1892年にはエルサレム-ヤッフォ間に鉄道が開通し、地中海まで4時間で結ばれるようになりました。
上の写真は、当時エルサレムに住んでいたさまざまな人々です。ユダヤ人、クリスチャン、ムスリム、宗教学者、商人、職人、村人、荒野から来たベドウィン、僧侶、若者、老人、などあらゆる人々が共に暮らしていました。
19世紀末頃のエルサレムの写真がいくつか展示されていました。
これはヤッフォ門を入ったところ(1893年)。この奥はダビデ通りと思われます。
これは、聖墳墓教会前の広場(1900年)。何かの集会でしょうか、たくさんの人が集まっています。
これは、ダマスカス門の外側(1900年)
1890年代にはシオニズム運動が始まります。シオニズム運動とは、ユダヤ人の長年のパレスチナ復帰の念願を政治的運動に発展させたものです。それ以前から各国の反ユダヤ主義による迫害から逃れてイスラエルへのユダヤ人の移住は始まっていました。1882年にはロシアから他国に逃れたユダヤ人は6万~7万人に上ったとのことで す。
リトアニア生まれのベン・イェフダーは、ヘブライ語を復活させようとエルサレムに移り、長男を最初に現代ヘブライ語を話す子供とし、1884年には週間新聞を発行しました。
1897年にヘルツェルの呼びかけで第一回シオニスト会議がスイスで開かれました。
続いてロシアから英国に帰化した化学者ハイム・ヴァイツマンは、英国の政界に働きかけ、1917年に外相バルフォア卿から「バルフォア宣言」を出させるのに成功しました。これは、英国政府がパレスチナにユダヤ人の民族郷土を建設することに同意するという画期的な宣言です。
イギリスのパレスチナ委任統治時代(AD1917-1948)
1917年、英国のアレンビー将軍がトルコ軍を打ち破り、400年に及ぶオスマン帝国の支配が終了しました。英国はエルサレムのマスタープランを作成し、三つの宗教の歴史的重要性を強調して建物をそのまま保存するようにしました。
エルサレムは教育と宗教的学問の中心となり、オリーブ山の北のスコパス山にヘブライ大学が創設されました。1918年にはアレンビー将軍やワイツマンはじめ多数の著名人の列席の元で定礎式が行われました。
こ れらは日本でも報道され、内村鑑三はバルフォア宣言に対し、「ユダヤ人が聖書の預言にかないてパレスチナの地を回復しつつあることは奇跡である」と言い、ま た、ヘブライ大学の定礎式の際には、「もしこのエルサレム大学にして設立せられんか、疑いもなくそは世界第一の大学となるであろう。」と述べています。ヘブライ大学の最初の講義はアインシュタインによる相対性理論の講義だったそうです。小さいながら現在では世界有数の大学となり、関係するノーベル賞受賞者は9人に上るとのこと。
この時代には、各国が研究機関や文化的施設を開設しました。代表的なものには、アメリカ東洋研究所(1900年)、英国考古学研究所(1916年)、ローマ教皇庁立聖書研究所(1927年)、ロックフェラー博物館(1938年)などがあります。
イスラエル独立(AD1948-)
一方、パレスチナでは、祖国回復をめざすユダヤ人とそれを阻止しようとするアラブ人との間に絶え間ない対立と争乱が続き、バルフォア宣言を無視した政策をとる英国当局に対してもユダヤ地下組織が抵抗していました。
また、ヨーロッパでは1933年にヒトラーのナチス独裁政権が確立し、ユダヤ人への迫害が激しくなり、ついには、強制収容所でのユダヤ人大量虐殺の悲劇となりました。そのため、パレスチナへの入国をめざすユダヤ避難民は激増していきましたが、英国は彼らの入国を拒否しました。
このような差し迫った状況の中で、シオニスト指導部はアメリカに働きかけ、その結果、1945年にトルーマン大統領はナチス強制収容所の生き残りのユダヤ人難民のう ち10万人のパレスチナ移民を認めるよう英国に勧告しました。しかし、英国の政策は変わらず、映画「栄光への脱出」で有名なユダヤ難民輸送船「エクソダス1947」の悲劇を生むに至りました。
第二次世界大戦後ますます激化するユダヤ人の騒乱に万策つきた英国はついにパレスチナ委任統治の放棄を決意 し、1947年7月以降は国連に付託されることになりました。国連では検討が重ねられ、同年11月の国連総会でパレスチナをアラブとユダヤの2国家に分割する「パレスチナ分割案」を可決しました。アラブ諸国は拒否しましたがユダヤ側は快諾しました。
翌1948年5月14日、英国の委任統治は終了、ユダヤ機関の議長ベングリオンはテルアビブ美術館で評議会を開き、独立宣言文を読み上げ、国名を「イスラエル」と決定しました。
こ れで、イスラエル独立が成し遂げられたのですが、その直後にアラブ軍との激しい戦いがありました。英軍の撤退はすでに独立宣言の前に始まっていて、英軍 はユダヤ人の度重なる抵抗運動のためユダヤ人に敵対感情を持っていたそうです。14日の朝には英軍はエルサレムを離れ、エルサレムはイスラエル軍の支配下 に入りました。
しかし、独立宣言発表と同時に、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラク、サウジアラビアのアラブ六カ国連合軍が、独立したばかりのイスラエル領に侵攻し第一次中東戦争(独立戦争)が勃発しました。兵力も兵器も優勢なアラブ軍に対し、劣勢なイスラエル軍は各地で苦戦しました。エルサレム旧市街のユダヤ人地区は、完全にアラブ軍に包囲され、27のシナゴーグが焼かれ、救援にかけつけたハガナーの士官と多数の市民の犠牲者を出し、5月28日に陥落しました(「城壁での孤立博物館」の記事参照)。イスラエル軍は兵力も武器も貧弱でしたが士気は高く、犠牲的で懸命な戦闘によって各地で奇跡的に勝利し、1949年にアラブ各国と休戦協定が成立しました。
この結果エルサレムはイスラエル領とヨルダン領に分割されて国連監視員がおかれ、旧市街はヨルダン領となり、西壁での祈祷も拒否されました。しかし、イスラエル領の西エルサレムは西に向かって発展し、移民もますます増大しました。
この不穏な独立戦争の前後に死海写本が発見され、ヘブライ大学に持ち込まれて解読研究がひそかに行われていたそうです。この経緯も奇跡的な物語です。(「クムラン」の記事参照)
以上の内容は、「聖都エルサレム5000年の歴史(関谷定夫著)」から多くを引用しました。2013年にこの博物館を訪問した時は、これらのことも全く無知で展示物の写真も十分撮れなかったのですが、一枚だけ撮影したのが下の地図です。独立直後から六日戦争で奪還するまでのエルサレムが分割されている様子が示されています。
その後の主な出来事は、
1949年、イスラエル、国連加盟
1956年、第2次中東戦争(シナイ戦争): エジプトに対して勝利するが、シナイ半島はすぐにエジプトに返還。
1967 年、第3次中東戦争(六日戦争): エジプト、シリア、ヨルダンが攻撃。苦戦したが結果的に大勝利。この結果エルサレム旧市街を含む東エルサレムを奪回、それまで近づくことのできなかった西壁を占領したとき、兵士たちは抱き合って喜び、泣いて壁に接吻したそうです。
1973年、第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争):ヨム・キプール(贖罪日)というユダヤ教最大の休日の10月6日、エジプトとシリアが突然攻撃、予備役を招集してなんとか防戦し、休戦に持ち込みました。
その後、エジプトおよびヨルダンとは平和条約を結び、一段落しましたが、PLOによるインティファーダとか、ヒズボラとのレバノン戦争、ハマスとのガザ戦争、数多くのテロなど、現在に至るまで、周辺からの攻撃は絶えず、常に緊張状態にあります。
2015年3月現在は、エルサレ ムは旧市街も含めて平和に聖地旅行できる状態にあり、先日の「オリーブ便り」というエルサレム在住の日本人によるブログによれば、3月13日には第5回エルサレム・マラソンが開催され、気持ちの良い春の日差しの中で多くの人が走ったり観戦したりして楽しんだということです。
エルサレムの今までの歴史を振り返ってみると、何度も繰り返し悲惨な戦乱に巻き込まれてきたことが分かります。エルサレムに本当の平和が来ることを祈らずにはおられません。
”エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」”(詩編122:6-7)
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Tower of David
ダビデの塔
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