Madaba Mosaic Map(マダバのモザイク地図)

訪問日: Tue, Feb 16, 2016

テルアビブからヨルダンのアンマンまでは、前日の夜の22:15発、23:00到着の、ロイヤル・ヨルダン航空の飛行機で飛びました。30分ほどの短い飛行時間です。結構な値段でしたが、これからのハード・スケジュールに対する体力温存を重視しました。夜中の飛行機ですが、ほぼ満席。昼間であれば、ヨルダン渓谷などの地形を空から眺めることができたのですが、真っ暗で何も見えません。あっという間にアンマンのクイーンアリア国際空港に到着しました。ほとんどの乗客はトランジット客で、ここで降りるのは数名でした。空港の出国審査のカウンターへ行こうとしていたら、その手前に別のカウンターがあって、制服を着た職員のような男たちが大声で呼び掛けてきました。「ヨルダンに入国するにはビザが必要で、ヨルダンの通貨で買わないといけないよ。ここで両替していきなさい。」と言うのです。確か、日本人は、観光目的ならビザは不要と聞いていたのにおかしいな、と思って確認しても、「必要だよ、両替は安くしておくよ。」と、しつこく言ってきます。少額なら両替しておいてもいいかと思い、300ドルをヨルダン・ディナールに両替しました。両替中にも、何人かの男が話しかけてきて、「400ドル両替するなら、もっと安くしておくよ。」とか、「トヨタの車を欲しいんだけど、安く買えないか?」とか、制服を着た職員にしては、随分軽い人たちだなあと思っていたら、やはり、いい加減な人たちで、出国審査ではお金は不要でした。アラブ人の呼びかけには気を付けましょう。

次に、バッゲージ・クレームに行って荷物を取り、予約してあった迎えのタクシーの運転手を探したのですが、見当たりません。仕方なく電話したら、しばらくしてやってきました。曰く、「お前の飛行機は、まだ着いていないはずだ。到着予定案内には、未着となっているよ。」と言って、スマホの画面を見せてくれました。すると、確かにヨルダン航空のホームぺージには、遅れて未着となっています。まったく、航空会社も空港の職員も、いい加減な人たちばかりです。空港ロビーに出ましたが、夜の12時近いというのに、大勢の人々が歩き回っています。子供連れの女性たちも多く、赤ん坊の泣き声も聞こえて、騒然としている状態で、イスラエルとは随分違うなあと思いました。

予約していたタクシーの運転手に従って空港ビルを出ると、沢山のタクシーが並んでいて、何人も声をかけてきます。どの運転手も怪しそうに思われ、あらかじめ予約しておいてよかったと思いました。

この日の夜は、空港敷地内にある、ヨルダン・エアポート・ホテルに泊まりました。ホテルの入口に入ると、ここにも、セキュリティチェックの荷物を通す機械が置かれ、担当者が荷物を入れてチェックしていました。しかし、荷物を透視する画面をよく見ていないし、おしゃべりをしながら、時々ブザーが鳴っても気にせずに荷物を通過させていきました。やはり、イスラエルとは違います。下の写真はホテルへの進入路です。

翌朝は、アメリカから来られた数名の方々とロビーで合流し、日本からの10数名を乗せて空港からやってきたツアーバスに乗り込んで、いよいよ、ロゴスミニストリーの2016年聖地旅行が始まりました。前回のツアーでご一緒した明石夫妻やS子さんたちとも久しぶりに再会しました。

ホテルを出て、これからマダバへ向かいます。

TabletのGoogle Mapも現在地を示してくれました。

あちこちで、羊の群れが放牧されています。この風景は、2000年前も変わらないものと思われます。

マダバの町に入りました。女性は頭を覆うイスラムの服装をしています。市民の大半はイスラム教徒ですが、キリスト教徒も30%ほどいるとか。

目だけをだしている女性もいました。

ビジターセンター横の駐車場にバスをとめ、土産品店がたくさん並んだ道を歩いて通り抜けると

マダバ地図で有名な聖ジョージ教会がありました。

現在は聖ジョージ教会ですが、ビザンチン時代初期(6世紀頃)には大きな教会があり、その床には、聖地エルサレムを中心として、北はレバノンから、南はエジプトまでを含む大きな地図がモザイクで描かれていました。その後、7世紀頃にイスラム勢力に占領されましたが、ウマヤド朝はキリスト教の建造物を壊すことはなく、その後のマムルク朝の時代(1250-1517)に破壊されたとのことです。この教会跡は、長い間、廃墟となっていましたが、1880年にカラクから移住してきたアラブ系クリスチャングループが、廃墟の上に新しい教会を建てようとしました。その工事中の1896年に廃墟の中に埋もれていた美しいモザイク地図が発見されました。

その新たに建てられた教会が、聖ジョージ教会、ギリシャ正教の聖ゲオルギオス教会です。
教会の前の広場には、ビザンチン時代の古い教会の柱が2本残っていました。

広場の端には、大きなマダバ地図の説明図があり、ガイドのラエルさんが丁寧に説明してくれました。

この地図は、東が上、北が左になっていますが、大昔(6世紀頃)のものとは思えないほど地理的な位置関係は正確です。聖書に書かれている地名があちこちにあり、現在では見られなくなったマムレの樫の木とか、ヨルダン川から部族ごとに持ってきた12個の石とかが、分かり易い絵で描かれていて大変興味深い地図です。

何故、このような地図が描かれたのでしょうか? いろいろな説があるそうですが、イスラエルを中心としたパレスチナ地方のキリスト教の聖地を訪問する巡礼者のための案内図だったという説が有力です。AD313年にキリスト教が公認され、ビザンチン時代になってヨーロッパのクリスチャンが急激に増え、聖地巡礼が盛んになって多くの人々がこの地を訪れ、聖地巡りに出かけたものと思われます。まさに、当時の「地球の歩き方」地図と言えるでしょう。この説以外にも、モーゼがネボ山から見た眺めを描いたという説もありますが、そうだとすると、文字の向きが反対になってしまいますので違うのではないでしょうか。この地図を見ながらタイムマシンに乗って、当時の聖地旅行をしてみたいですね。

地図をよく見てみると、当時の様子を想像することができます。いろいろな解説記事から、書かれたギリシャ語の地名に日本語をあてはめてみました。まず、エルサレムが実際の縮尺より大きく描かれていて、「聖なる都」と表現されていますので、エルサレム城壁内を詳しく説明することも大きな目的だったと思われます。その他の聖書的な地名として、エルサレムの右に聖誕教会のあるベツレヘム、エルサレムの城壁のすぐ右下に、アケルダマというのもあります。これは、イスカリオテのユダが首をつって死んだ場所です(使徒1:15-19)。その右下にはニコポリスと書かれた大きな町があります。これは、エマオのことで、キリストが十字架刑になった後に二人のクリスチャンがエルサレムから向かった町です。途中、二人は復活されたイエス様とお会いして話をしましたが気がつきませんでした。右上の方には、アブラハムが住んでいたマムレの樫の木も見えますので、その近くがヘブロンです。上の方には、死海があり、塩の湖と書かれていますが、当時は、現在より塩分が薄かったのでしょうか、船が行き来しています。左上には死海に流れ込むヨルダン川がありますが、魚が死海から離れてヨルダン川に登っていくように見えます。現在の死海は、南と北の間に陸地が突き出ていて、途中がくびれていますが、この地図では、陸地はなく全体が丸い形になっていますから、当時は、現在より、水量が多かったようです。

城壁で囲まれたエルサレムの地図をよく見ると、当時の華やかな様子がよく分かります。一番左(一番北)にある門は、現在のダマスカス門、当時は、ステファノ門と呼ばれていたそうですが、そこを入ると立派な広場があって高い柱が立っています。この柱は、2世紀にエルサレムを支配したローマ皇帝ハドリアヌスが立てたもので、柱の上には、ハドリアヌスの銅像が立っていたと言われています。その門から南へ両側に列柱のある大通りが伸びていて、これがローマが征服した各都市に見られるカルドーです(参照記事:カルドー)。途中に、イエス・キリストが十字架刑に処せられ、埋葬された聖墳墓教会があります。さらに南へ行った突き当りにハギア・シオン(聖なるシオンの教会、現在は、マリア永眠教会)があり、少し手前の西側にネア教会があります。ネア教会はビザンチン時代の最盛期AD543年にユスティニアヌス帝によって建てられた巨大な教会で、正式には「新しい神の母聖マリアの教会」という名ですが、「新しい」という意味の「ネア」をとってネア教会と呼ばれていました。その後イスラム勢力に破壊されて、現在はありません。北のステファノ門の広場からは、カルドの東側にもう一本大通りがありました。この通りはテロピオンの谷沿いに造られ、第二カルドーとも呼ばれていました。現在は、西壁トンネル内に痕跡を見ることができます。また、突き当りの糞門を出たあたりで、最近第二カルドーの遺跡が発見されました。東側にある、現在のライオン門は当時、羊の門と呼ばれていたそうですが、その門を入った北側に、聖マリア教会があったと書かれています。現在の聖アンナ教会のことか、その近くにあった教会だと思いますが、そのすぐ下に、小さな四角が二つあります。これは、ベセスダの北池と南池だと思います(参照記事:ベセスダの池)。 また、その南側の第二神殿があった場所には、何も描かれていません。これは、エルサレムを征服したローマ軍が破壊し、その上にローマの神殿を立てましたが、ローマがキリスト教を国教にした時、ローマ神殿は破壊されて更地になったとのこと。その他、現在のヤッフォ門は、当時はダビデの門と呼ばれ、その南に現在もあるダビデの塔が描かれています。また、聖なるシオンの教会の右側には、最後の晩餐の舞台となった二階の間らしきものも描かれています(参照記事:二階の間)。まるで、キリスト教のテーマ・パークです。

次に、ヨルダン川の近辺を見て見ましょう。ヨルダン川の下にギルガルがあります。ヨシュアの一行は、40年間の荒野の旅路を終えてヨルダン川を渡ってついにカナンの地に入り、最初に宿営したところがギルガルでした。そして、一部族にひとつづつ、ヨルダン川の石を持ってきましたが、それを子孫のための記念のしるしとして、12個まとめてギルガルの地に立てたと聖書には書かれています。(ヨシュア記4章) 6世紀頃には、実際にこのあたりに12個の石が、展示されていたのでしょう。どんなものか見てみたいものです。やしの木で囲まれた大きな町がエリコですが、これは、イエス様がザアカイに声をかけた新エリコだと思われます。ヨシュアが打ち破った古代エリコは、その右上にある「エリシャの聖所」の近くで、現在「テル・アッスルターン」と呼ばれる古代遺跡のあるところです。(参照記事:エリコ) エリコの下(西側)には、エバル山とゲリジム山に挟まれたシェケム(現在のナブルス)があり、ヤコブの井戸も描かれています。ヨルダン川の河口近くにベタバラと書かれた場所があります。ベタバラの意味は、「渡河の家」であり、この場所をヨシュアたちが渡ってカナンの地に入ったとされています。また、ベタバラをベタニアと読み替えて、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた場所で、イエス様もここで洗礼を受けられたとする説もあります。しかし、聖書には「ヨルダン川の向こう側のベタニア」と書かれているので、矛盾します。また、ヨルダン川の上(東側)には、走っている鹿と、それを追いかけるライオン(尾だけ)が書かれています。当時は、まだ、このようなアフリカにいる猛獣が住んでいる場所だったようで、少年ダビデが、羊を襲うライオンの口を開いて救い出したというのも納得できます。

死海の東側の地図です。一番東側にカラクの町があります。そのあたりから流れてくるゼレデ川。北の方の死海沿岸には、三つの温泉地が描かれていますが、これは、ヘロデ大王もよく湯治に来ていたところで、現在は、ハママト・マイーンと呼ばれる人気のある温泉地だそうです。

ネゲブ地方も描かれていて、ナバテア人の町マムシト、イスラエルの南の端ベエルシェバ、更に南のガザ、シンの荒野をさらに南へ下って(実際は東になりますが)、エジプトのナイル・デルタまで描かれています。

聖ジョージ教会の中には、たくさんの聖画が飾られていました。マダバは、モザイクの町、どの聖画もモザイクで描かれていました。

1500年もの昔の古代の地図が、腐ることのないモザイク石で書かれたことによって、現在でも当時を彷彿と思い浮かべることができることは、まさに、神様からの奇跡的な贈り物だと感動しました。